第42話 いにしえの滝

 翌日早朝。日が昇る前から、和姫は兼平と共に館を出ていた。

 二人が向かったのは、館の裏手にある山の中。武士たけしとバサラも彼女らに続き、足場の悪い山道を進んで行く。

 現代日本とは違い、登山コースが整備されているはずもない。武士たけしは足下に気を付けながら、和姫たちを見失わないよう足を進めた。

 武士たけしの後について歩いていたバサラは、ふと気を逸らした途端に岩に足を取られて尻もちをついた。ドタンッという音を聞いて武士たけしが振り返ると、バサラが顔をしかめて呻いている。


「痛た……」

「大丈夫か、バサラ?」

「落ち葉で滑る……。兼平さん、何処まで行くんですか?」

「もう少し、だよ。滝の流れる音が聞こえるだろう? そこまで頑張ってくれ」

「はい」


 兼平の言う通り、耳を澄ませばかすかに水の流れる音が聞こえる。目的地が遠くないことがわかれば頑張れる、とバサラは尻についた落ち葉を払い落とした。


「大丈夫か?」

「ああ。これくらいは、普段の鍛錬でもあるから。山道を駆け上がったり駆け下りたり、部活よりもきついことやってるからなー」


 ニシシと笑い、バサラは武士たけしを追い越して行く。

 直垂ひたたれ姿の小袴こばかまの裾を折って短くし、山道を登る。武士たけしもバサラに後れをとらないよう、小さく「よし」と気合を入れてから歩き出した。

 それから体感で十分程行くと、滝のドドドッと流れる大きな音がはっきりと聞こえるようになる。更に何となく空気に冷たさが加わり始め、水辺が近いことが肌で感じられた。

 やがて大きな川の傍に出て、川を辿るように進む。すると、目の前に巨大な滝が姿を現する。武士たけしとバサラは高さにして二十メートルはありそうな存在感に、しばし言葉を失った。


「――でかっ」

「ああ、大きい……。それに、凄く澄んだ空気を感じるな」

「ふふ、君たちもこの滝の凄さを感じたのかな。この滝は、豊葦原でも一二を争う古さを持っていてね。古くから、特別な力を持つ滝だとして信仰を集めてきたんだ」

「特別な力……」


 兼平の言葉に感銘を受けた武士たけしが呟くと、近くにいた和姫が「そうなのです」と応じる。


「神が宿り、神の世と繋がるとも言い伝えられているんです。わたくしは時折、この滝の力を頂くためにここに来ては祈っているのです」

「だから慣れてたのか、歩くのに」

「ふふ。体が弱いとはいえ、これだけは一人でやり遂げなければなりませんから。どなたにも、代わって頂くことは出来ません」


 泥だらけの草履を見下ろし、和姫はふふっと笑ってみせた。

 顔を上げた和姫につられ、武士たけしも滝を見上げる。滝の上には両岸をまたいで注連縄がつけられていた。白い水飛沫を上げながら流れ落ちる水流は、滝壺に勢い良く突っ込んで行く。

 ぼんやりと滝を見ていた武士たけしは、兼平の「さて」という声と手を叩く音で我に返った。見れば、兼平は何やら畳んだ白い布を手に乗せている。

 兼平は手の上のそれを和姫に差し出し、滝の近くの岩を指差した。


「和姫、着替えて来てくれるかい?」

「わかりました」


 頷いた和姫が、岩の後ろに姿を隠す。

 武士たけしとバサラが大人しく待っていると、やがて真っ白な小袖を身にまとった和姫が現れた。長く豊かな髪も白い紐でくくっている。

 その神秘的で可憐な姿に、武士たけしは文字通り言葉を失った。


「……っ」


 顔を真っ赤にして動けない武士たけしに代わり、バサラがひょいっと身を乗り出した。


「綺麗な小袖だな。それが、ここで修行するための服なのか?」

「ええ、そうなんです。白は神様の世に近付くために身に着ける色、身が引き締まる色でもあります。まっさらな心で手を合わせ、対話を試みるのです」

「へぇ……。話せたことはあるのか?」

「ありません。でも、尊い何かが傍にいて下さる、そんな気がします」


 滑らかな白い袖を撫で、和姫は小さく微笑む。それから硬直したままの武士たけしの目の前に行き、彼の顔を覗き込んだ。


「あの、武士たけし? 具合でも悪いのですか?」

「え? あ、いや」

「この白装束を着ている間は、どなたにも触れることは出来ないのです。あの、バサラ。武士たけしに熱はありませんか?」

「熱はないよ。体の具合も良いはずだ。……ま、別の意味で熱はあるがな」

「別の意味?」

「和姫は気にしないでくれ。ほら、やるべきことがあるだろ?」

「――っ、はい」


 しずしずと兼平のもとへと向かう和姫を見送り、バサラは石膏像のようになったままの武士たけしの前へと仁王立ちする。しかしすぐに、堪え切れなくなった笑いを吐き出した。


「あっはっはっは! ほんと最高だわ、お前。何だよ、可愛らし過ぎて固まってやんの!」

「ば、バサラ……。そんなに笑うことないだろ」

「これが笑わずにいられるかっての。……はー、苦しい。涙出て来る」

「おい……」


 ひーひーと腹を抱えて笑いを鎮められずにいるバサラに対し、武士たけしは別の意味で恥ずかしさがせり上がって来た。ツボに入って涙すら流すバサラを後ろから羽交い絞めにし、口を手で塞ぐ。


「いい加減にしろ、バサラ! 少し黙れ!」

「むっ………。むぐぐっ、むぐっ(わかった、離せ)!」


 息が思うように出来ずにギブアップしたバサラを、武士たけしはようやく解放する。咳き込むバサラに自業自得だと吐き捨て、武士たけしは今まさに滝に打たれようとしている和姫に目をやった。

 徐々に秋の空気が迫る中、水はさぞかし冷たいだろうと気を揉む。


「和姫……」

「和姫、体が弱いのにな。あんなに一生懸命な顔して、滝修行か。……あんな姿を見たら、オレたちももっと頑張らなきゃって思うよな」

「ああ。……和姫の望みは、おれたちが必ず叶える。絶対に、あのの笑顔を護り通すんだ」

「……その意気だ」


 武士たけしとバサラが決意を新たにしていた時、和姫は最も水流の激しい場所で滝に打たれようとしていた。

 水の勢いに気圧され、和姫はごくんと唾を呑み込む。何度やっても、この瞬間は慣れない。

 すると、後ろについて来ていた兼平が「和姫」と呼び掛けた。和姫が振り返ると、彼女は手のひらに小さな翡翠の勾玉を乗せて差し出す。


「これは、勾玉?」

「そう。これを手に持っているんだ。握り締めて、神の存在を意識する。水は冷たいが、その冷たさがお前の力を研ぎ澄まさせる。……さあ、行ってきなさい」

「はい」


 頷き、和姫はそろそろと足を進める。滝壺に足の先を浸すと、ひやっとした水が絡みついて来た。


「……」


 意を決し、滝壺に身を鎮める。

 大きな滝だが、滝壺はそれ程深くない。和姫は水底に足を付け、流れ落ちる滝の中央へと進む。水に体を浸すだけで気が遠退きそうになるが、自らが何のためにここにいるのかを強く念じた。


 (大切な人たちを護りたい。だから、お願いします。力をお貸し下さい!)


 和姫は胸の上で勾玉を握り締め、閉じた瞼の裏で祈りをささげた。

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