第36話 反撃開始
「つい、た」
空の白みが落ち着いた頃、
本陣奥で光明と共に戦の策を巡らせていた信功は、駆け込んで来た武士に怪訝な顔を見せる。
「お館様、お館様!」
「どうかしたのか。大声を出さずとも聞こえ……」
「か、和姫様たちがお戻りでございます!」
「何だと!」
その大音声は陣全体に響き、傍にいた光明は耳を塞ぐ。声が落ち着いた後、光明は興奮冷めやらぬ主を制して三人をここへ呼ぶよう促した。
それから数分後、
「お館様、光明さん」
「ただいま戻りました!」
「父上!」
「和!」
泥だらけの娘を目の前にして、子煩悩な信功が大人しくしているわけがない。ガシャガシャと鎧を鳴らして駆け寄ると、娘の顔を確かめて抱き寄せる。「うぐっ」と和姫が苦しげに呻くが、父は意に介さない。ぎゅうぎゅうと抱き締める。
「和、和。気付かずにいて悪かった、怖かったろう」
「だ、大丈夫です、父上。か、必ず、
「……そう、だな。お前の言う通り、二人はわしのもとへもすぐに馳せ参じてくれた。そして今、お前をこの腕に戻してくれた」
信功は赤くなった目元を
突然主たる信功に頭を下げられ、慌てたのは
「あ、顔を上げて下さい!」
「そうですよ、信功様!」
「いや、下げさせてくれ。本当に、かたじけない。娘を取り戻してくれた恩、忘れはせんぞ」
「いえ、本当に……」
ほとほと困ってしまった
「本当に心配しておられたんだ。これくらいのこと、当然だろう」
「ですが、おれたちは五郎太さんたちの助けがなければ戻って来ることは出来ませんでした。ですから、お互い様です」
「……だ、そうですよ。お館様」
「それこそ、わしの出来ることしかやっておらん。いつでも兵を動かせるよう、備えておく必要があったでな。最少人数を差し向けることしか出来なんだ」
「充分過ぎる程です。お蔭様で、オレたちは戻って来られたんですから。もう顔上げて下さい、信功様!」
渋面を作る信功に、バサラが呆れつつも感謝を伝える。そうすることでようやく顔を上げた信功は、咳払いをして表情を改めた。
「――コホン。よく戻って来た、三人共。戦のことはわしらに任せ、少し休みなさい。砦の奥に小屋があるから、そこで飯を貰うと良い」
「ありがとうございます。和姫、先に行っていて」
「わかりましたわ」
頷き歩いて行く和姫を見送り、
漏れ聞こえて来るのは、戦況についてのもの。怪我人の数、味方の状況、敵の数、規模、その他、様々な情報が集まって来る。
「光明さん、今戦はどうなっているのですか?」
「お前たちは……。奥で休めと言っただろう」
「申し訳ないです。ただ、どうしても気になって」
叱責され、
「嘘、だろっ。向こうが逃げてく!?」
「まだ、始まって数時間じゃ……」
二人が目にしたのは、勢いづく木織田軍に追われて逃げようとする武富士軍の様相だった。遠くから見てもわかるほど、戦意に差がある。木織田軍からは雄々しい叫び声が聞こえるが、武富士側からはそんな声はしない。
武富士は総崩れだ。しかし、歴戦の猛者であるはずが何故。
そんな二人に答えをくれたのは、戦況をつぶさに見てきた光明だった。
「驚いたか、二人共」
「驚く、なんてものじゃないですよ」
「はい。でも、どうしてですか? 武佐志国の武富士と言えば、虎に例えられる猛者ではないのですか?」
「不思議に思うのも仕方ない。私としても、喜ばしい想定外だったからな」
「喜ばしい想定外、ですか。どうして……」
「ああ。武富士は、勝手に崩れてくれた。戦が始まった当初から士気も低く、こちらの勢いが強いと見るや、戦を捨てて逃げ出す者もいたと聞く。……何故か、わかるか?」
光明に問い返され
正直に「わかりません」と首を横に振る少年たちに、光明は目を細めた。
「何故かなど、答えるのは容易い。お前たちが、向こうの城で内部を引っ掻き回してくれたお蔭だ」
「オレたちの?」
「どういうことですか?」
「まだわからないか? お前たちが姫様を救うためにどう立ち回ったのかは知らんが、城で犯した部下たちの失態に対する玄定の怒りは半端なものではなかったらしい。それに怯えた者たちが、情けなくも離脱しているのだよ」
「武富士の殿様、怒り狂ってんのか」
肩を竦め、バサラが呟く。
「それもこれも、身から出た錆ってんだろ。和姫の件がなくたって、そんな武将はいつか愛想付かされるもんだ」
「珍しいな、バサラ。お前がそんなこと言うなんて」
「たまにはな」
クスッと照れ笑いするバサラを珍しげに眺めた
「さて」
ぱちん、と光明が懐から取り出した扇子を閉じた。その扇子で指し示すのは、黒い煙のたつ城の下――武富士の本陣である。
「反撃といこうか」
光明の言葉に合わせたかのように、戦場では第二幕が始まりつつあった。
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