第34話 逃亡策
斬られたと思った男は、無意識に目を閉じた。
しかし予想した激痛は、いつまで経ってもやって来ない。不思議に思い顔を上げると、彼は生きていた。
「……?」
「バサラ、逃げるぞ!」
「わかった!」
「和姫も」
「はいっ」
「あ、待て!」
男は急いで振り返り、仲間の内二人がまだ立っていることに気付く。
二人は怪我こそないものの、気が抜けたようにぼんやりとしている。彼らは男と同じように、バサラによって猫騙しを喰らっていたのだ。
「何をしている。さっさと追え!」
「は……はっ」
「急げ!」
バタバタと忙しなく走り去っていく部下たちを見送り、男は無意識に首元に手を添えていた。そして、何故と呟く。
「何故、殺さずに逃げた? ――わからぬ」
自分を殺せば、配下たちを殺せば、姫君を奪い返すのはもっと簡単なことだ。邪魔する者がいなくなるのだから。それをしない少年たちの行動が、男には解せない。
「うわ。城中明るいな」
同じ頃、
バサラが周囲を確認するために顔を出すと、すぐに引っ込める。松明が灯され、死角は少ない。火を持った者たちが三人を探してうろついていた。
今もまさにすぐ傍を、二人組が歩いて行く。息を潜め、気配を消してやり過ごす。
「どうする、
「ああ。どうにかして、隙を突いてここを出ないと。三人で帰るってお館様と約束したんだから」
「父上……。戦を始めようという最中、お手を煩わせてしまったのですね」
「姫が気に病む必要はないよ。な、
「うん。それに、姫を助けに行くと言ったのはおれの意思だから」
「
「ほら、泣くのは帰ってからだろ」
瞳を潤ませる和姫のこぼれそうな涙を指先で拭い、
自分の想定外の行動に、
「さ、帰ろう。もう一度騒ぎを起こして、それに乗じて逃げるか?」
「これだけ追っ手がいたら、捕まる可能性の方が高い。だけど、そうするしか……」
「待って下さい」
「和姫?」
「どうかしたのか?」
「しっ」
唇に自分の人差し指をあて、和姫が遠くに見える戦場の方向を指差した。そちらに
しかし、和姫は何かをじっと見詰めている。小声で「聞こえませんか?」と問われ、二人は耳を澄ませた。
すると確かに、何かがこちらに向かって来る音が聞こえる。しかも複数の馬の
「一体、な……」
「おい、何か聞こえないか?」
「は? 何を言っているんだ」
バサラの呟きに被さるように、近くを見回っていた男が声を上げる。それに対し首を傾げた相棒は、すぐにその不審感を撤回せざるを得なくなった。
何故ならば、複数の同僚が気付いたからだ。門の外に、圧倒的な圧があることを。
――ドンッドンッ
大きく重い音が響き、門が軋む。その場にいた多くの武士たちが戦々恐々とし、ある者は得物を持ち、ある者は及び腰で門を眺める。
そして、大きな丸太が門を突き破った。
途端に数え切れない程の武士たちが城の中になだれ込み、突如として戦場と化す。まさか敵襲があると考えていなかった武富士側は、多くが状況を呑み込めずに戦いへと流れざるを得ない。
四方八方で刀が打ち合い、矢が飛び交い、怒号が響き渡る。そして、血のにおいと死へと誘う叫びが充満して行く。
突然の出来事に、
「これは一体……」
「でも、今がチャンスだ。乗じて城の外に逃げるぞ」
「ああ」
「あれはっ」
「行かせん!」
「――ぐあっ」
三人が走るのに気付いた武富士側の武士が弓を引くが、その背を
「城の外へ出ろ! 陣にて、お館様が待っておられる!」
「――っ、はい!」
「ありがとうございます!」
聞き覚えのある声だ。闖入者たちの正体を確信し、
門周辺には、木織田の家紋を描いた旗が幾つも風になびく。
足軽が数十人、一頭の馬を守りながら戦っている。馬の横を通り抜けようとした矢先、馬に乗っていた武将が三人の背を更に押した。
「三人共、ここは任せろ!」
「ご、五郎太さん!?」
「さ、行け!」
驚き目をむくバサラを追いやるように手を振り、五郎太は険しい顔で現場へ指示を送る。
「三人を逃がし、この城を貰い受けるぞ。皆、気合を入れろ!」
「はっ」
「行くぞ」
「おおっ!」
幾つもの声が上がり、戦況はどんどんと変わって行く。
背中に様々な音を聞きながら、二人は一心不乱に木織田の陣営を目指した。
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