第98話 楽しいなあ

「テンちゃん。もう一局いいですか?」


「もちろんだよ。私も全然指したりないからね」


 彼と出会って、約三か月。それほど多いとは言えない時間の中で、たくさんの彼を見てきた。泣いている姿も、落ち込んでいる姿も、怒っている姿も。そして、笑っている姿も。


 彼と初めて会った日、私は決めたのだ。彼のことを、近くで支えていこうと。そうすることで、友達だったあの人への恩返しになると思ったから。それが、私が引っ越してきた理由。


 もし「君を支えたい」なんて言ってしまえば、母が亡くなったことを同情されていると彼に思わせてしまうかもしれない。本当は、そうじゃないのに。だからこそ、私は言えなかった。「君との将棋が楽しかったから」と、その場で思いついた理由を彼に伝えたのだ。


「今度はテンちゃんが先手をどうぞ」


「はーい。じゃあ、ありがたくもらっておくよ」


 嫌な光景を思い出したくなくて、自分の過去を話さないようにした。ただの同情と勘違いされるのが嫌で、引っ越しの理由を誤魔化した。けれどきっと、いつかは話す時がくるのだろう。


 彼は、どんな反応をするのだろうか。「『僕を支えたい』なんて、本当は僕に同情してたんじゃないですか?」とか言われたら、立ち直れる気がしない。まあ、彼のことだから、私を気遣った返答をしてくれるのだろうけど。


「うーん。強くなりたいなあ」


「大丈夫。前より実力は上がってるよ」


「いや、まだまだです。せめて大会でちゃんと勝てるくらいにはならないと」


「あー。前は一回戦で負けちゃったしね」


「うぐっ」


 悔しそうな表情で心臓を押さえる彼。どうやら、私の言葉がクリーンヒットしてしまったらしい。いやはや、申し訳ない。


「つ、次の大会は絶対に勝ちますから。勝って、テンちゃんに恩返しするんです」


「え?」


 不意に彼の口から出た、私に恩返しするという言葉。その意味が分からず、私は首をかしげる。


「ほら。テンちゃんって人混みが苦手じゃないですか。けど、前の大会の時は無理して応援に来てくれて。僕、すっごく嬉しかったんです。だから、次の大会ではちゃんと勝つところを見せたいなって」


「…………」


「あ。こんなこと言ったら、次も絶対応援に来いって強制してる感じになっちゃいますかね。すいません」


「……いや、全然。次ももちろん応援に行くよ」


「本当ですか!? やった!」


 喜ぶ彼の声を聞きながら、ゆっくりと顔を上に向ける私。視界に映る年期の入った天井と、蛍光灯の明るい光。私は、心の中であの人に語り掛ける。


 無意識にこっちが嬉しくなること言っちゃうなんて。ほんと、彼はあなたにそっくりだよ。


「テンちゃん、何してるんですか?」


「ん。何でもないよ。そんなことより、将棋の続きしよ」


「あ、次は僕の手番ですね」


 先ほどとは打って変わって真剣な表情で盤上を見つめる彼。きっと今、彼の頭の中では、駒たちが縦横無尽に駆け巡っているのだろう。


 ああ。楽しいなあ。


 彼を眺める私の頬は、どうしようもなく緩んでしまうのだった。

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