第91話 焦るでない
師匠との生活。誰かが傍にいる生活。一人ぼっちだった私にとって、何とも言えない不思議な日々。
朝起きる。朝食を食べる。そこから将棋。時がたつのも忘れて、ただひたすらに対局を繰り返す。気がついた時には夜。晩御飯を食べ、寝る支度をして就寝。
傍から見れば、変化が少なくつまらない日常かもしれない。けれど、私と師匠との間に置かれた将棋盤。その上には、たくさんの変化があふれていた。加えて、将棋を通して師匠といろんな会話ができる。一人じゃないと実感できる。私にとって、つまらない日常であるはずがなかった。
「師匠。どうしてこの局面で
「終盤じゃからな。駒の損得よりも、いかに早く相手の王様を詰ませるかを考えなければならん。ここで飛車を逃げるようでは攻めが遅れてしまうじゃろ。例えば、次におぬしがこう指したとするとどうじゃ?」
「……あ、なるほど」
もちろん、違うルーティーンの日もあった。時折、師匠は服作りを行う。その理由は、お金を稼ぐため。師匠に教えてもらいながら、私も服作りに挑戦した。
「これ、全然長さが合わないんですが」
「貸してみい。……ふむ。おぬし、変な所で縫い合わせておるな。まったく」
「す、すいません」
「謝らずともよい。最初は誰でも失敗するものじゃ。次から気をつけるんじゃな。おぬしにはいずれ、こうやって服を作れるようになってもらわんといかんからの」
そう言いながら、師匠は天狗の団扇を振るう。針、糸、布、定規、はさみ。いろんな道具が縦横無尽に動き、服を形成していく。私にはとてもまねできそうもない。手縫いでやっていても失敗するくらいなのだから。
「むう。また変な感じに」
「言ったそばから間違えるとは。焦るでない」
こうして作った服を持って、私たちは山を下りる。山を下りた先は、人間たちの生活圏。どうやら、師匠の作った服は、人間たちには人気らしい。いつも服を卸しているという店の店主は、「この前の服、大きさ違いでもう二十着くらい作ってくれねえか? 結構売れるんだよ」と師匠にお願いしていた。別の店では、「この新作もいいねー。さっそく店の一番目に留まりやすい所に置いてみるよ」とウキウキ顔で言われていた。
「師匠は、人間と関わるのが怖くないんですか?」
帰り道。山を登りながら、私は師匠の背中に向かって尋ねた。心臓が、ドキドキと気持ちの悪い早鐘を打ち続けている。蘇る記憶。「バケモノ」という言葉。私に罵声を浴びせる人間たちの姿。
果たして、師匠の背後で荷物持ちをしていた今日の私は、人間たちにどう思われていただろうか。体が小刻みに震えていたことは、気づかれていなかっただろうか。
「怖いわけなかろう。といっても、わしも、自分が天狗であることはほとんどの者に隠し続けておる。そういう意味では、人間のことを怖がっていると言えなくもないかの」
師匠は、私の方を振り返ろうとはしなかった。ただまっすぐに姿勢を伸ばし、山を登っていた。
「わしとおぬしでは、経験してきたことが何もかも違う。じゃから、これからおぬし自身で判断していくんじゃ。人間とどう関わっていくか。自分の正体を明かすに足る人間がいるのかどうか、とかの」
薄暗い山の中。師匠の言葉に反応するように、木々たちのざわめきが響いていた。
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