第90話 ……おいしい

 満足しているか、だって?


 友達にも、親にも、里の皆にも見捨てられた。今まで一人ぼっちで生活してきた。死ぬことさえ考えた。


 そんな私が、現状に満足しているか?


 答えなんて、考えるまでもない。


「満足、してません!」


 それは、私の本心そのものだった。思っていた以上に大きな声が出て、自分で自分にびっくりする。


 女性は、一瞬目を丸くした後、小さく体を震わせ始めた。数秒後、私の声に負けないくらいの大きな笑い声が、室内に響き渡った。


「あっはっはっはっは。よいよい。本音を語ることができるというのは美徳じゃ。まあ、そこまで大声を発するとは思っておらんかったがの」


「す、すいません」


「謝る必要などない。さて、おぬしよ。満足していないということは、ここで暮らすという返事ととって構わんかの」


「は、はい。よろしくお願いします」


 私は、女性に向かって深々と頭を下げる。確かな高揚感が、私の心を支配していた。


「こちらこそよろしく頼むぞ。わしのことは……そうじゃな。師匠とでも呼ぶがよい」


「……へ?」


 間抜けな声とともに頭を上げる私。視界に映る女性の顔には、何かを期待するような表情が浮かんでいた。


「これからおぬしにはみっちり将棋を教えていく予定じゃからの。そういう呼び方もよいと思ったのじゃ。不満か?」


「い、いえ。そんなことないです。えっと……師匠」


「うむ。よろしい。わが弟子よ」


 吊り上がる女性の口角。それはそれは見事なまでに。もともと鋭い目つきが、明らかに緩くなっている。


 ……もしかして、「師匠」って呼ばれてみたい願望でもあったのかな?


「よし。いろいろ決まったことじゃし、晩飯にするかの。いつもは茶漬けで済ますが、今日は……あれじゃな。ほれ。おぬしも手伝うがよい」


 そう言って、師匠は立ち上がった。促されるまま、私も立ち上がる。


 師匠の指示のもと、晩御飯の準備を始める。かまどでご飯を炊き、それに酢、砂糖、塩、ごまを入れて酢飯を作る。油揚げを切り、醤油、砂糖、だし汁を使ってグツグツと煮ていく。煮終わった油揚げの中に、作っておいた酢飯を入れて形を整える。


「上出来じゃな。おぬし、なかなか手際が良いではないか」


 皿に並べられた料理を見て、師匠はうんうんと頷いていた。


「そ、そうですかね? 料理なんて、母の手伝いで少ししかやったことなかったんですが」


「ほう。今後の成長が楽しみじゃ」


「えっと。ちなみに、この料理の名前って……」


「ん? これはいなり寿司というものじゃ。知らんかったのか?」


「は、はい。恥ずかしながら」


 天狗の里では、こんな料理見たことも聞いたこともない。人間の里に伝わっている料理なのだろうか。それなら、知らないのも当然かもしれない。


 ……もし、あの子とずっと友達のままだったら、この料理を知る機会もあったのかな……なんて。


「おぬし、ボーっとしておらんと早く食べんか。いなり寿司は出来立てが一番おいしいんじゃぞ」


「え。あ。い、いただきます」


 頭の中の未練を振り払い、目の前のいなり寿司を手に取る。ゆっくりと口に近づけ、一噛み。


 あ……。


 口いっぱいに広がるとろけるような甘さと油。遅れてやってくる酢飯の酸っぱさ。柔らかな油揚げと米にごまが加わり、独特の触感を生み出している。


「……おいしい」


 私は、自然とそんな言葉を漏らしていた。


「それは結構なことじゃ。ちなみに、まだ材料はある。明日も作ってみるかの?」


「いいんですか?」


「ふ。もちろんじゃ」


 この日から、私と師匠との生活は幕を開けたのだった。

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