第89話 ここで暮らす気はないかの?

「負けました」


 その言葉を口にしたのは私だった。盤上では、私の王様が女性の駒たちに取り囲まれている。対して、女性の王様はまだまだ囲いの奥深く。誰もが納得する敗北だ。


 けれど、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。むしろ、私の心は充実感で満ち満ちていた。


「ふむ。よい将棋じゃった」


 盤の向こう。女性は、満足そうにそう告げた。心なしか、女性の目は少々細くなっていた。


「あの……」


「なんじゃ?」


「…………」


「そこで黙る奴があるか。早う言うてみい」


「……もう一回、いいですか?」


 ほんの少しの躊躇はあった。だが、この願望を表に出さずにはいられなかった。私は、女性に再戦を申し込んだのだ。


「ふむ、よかろう。こちらも暇な身じゃからな。大歓迎じゃ」


「ありがとうございます」


「礼は不要じゃ。ほれ。並べ直すぞ」


 女性は、素早い手つきで駒を元の位置に戻していく。私も、女性に置いていかれないようにと駒を手に取る。静かな家の中に、パチリパチリと優しい駒音が響き続ける。


「さて、二局目といくかの」


「はい。よろしくお願いします」


 こうして始まった二度目の対局。一局目と同じ、いや、それ以上の心地よさ。将棋を通した女性との会話。


 寂しくない。対局の中で、私はふとこんなことを思った。


 里を出てから、ずっと一人で生活してきた。誰かと関わることが、怖かったから。それでも、私の中には常に寂しさが付きまとっていた。


 女性との将棋は、そんな私の寂しさを、どこかに吹き飛ばしてしまったらしい。私が一手指すごとに、女性は必ずその手に対する返事をくれる。絶対に私を一人になんてしない。それが何よりも楽しくて、そして嬉しかった。


「負けました」


「さっきよりも良い手が多かったように思うの。どうじゃ。もう一局」


「お願いします」


 女性との対局が何度行われたことだろう。気がついた時には、家の窓から見える景色は闇一色に染まっていた。


「のう。おぬし」


 対局後、駒を元通りに並べる私に、女性は声をかけた。


「何でしょうか?」


「ここで暮らす気はないかの?」


「……え!?」


 それは、思いもよらぬ提案だった。一瞬、自分の耳がおかしくなったのではないかと疑うくらいには。


「聞くところによると、おぬしは浮浪状態とのことではないか。それなら、ここにいればいいと思うのじゃが」


「で、でも……」


「わしもおぬしと将棋ができれば、毎日退屈しのぎを考えなくてよいからの。どうじゃ?」


「…………」


 すぐに言葉は出なかった。騙されているんじゃないか。もし騙されていなかったとして、何かの拍子にまた拒絶される苦しみを味わわされるのではないか。そんな迷いの感情が、私の中でグルグルと渦を巻く。


 何も答えられずにいる私に向かって、女性は再度口を開く。


「別に強制したりはせん。おぬしが抱えているものは分かっておるからの。おぬしが他者との関わりに抵抗感を覚えてしまうのは当然のことじゃ。じゃが……」


「…………」


「わしには、おぬしが現状に満足しておるとは到底思えんのじゃ。同じ里を出た天狗として……の」

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