第88話 一局付き合うがよい

「ほう。おぬし、もしや将棋好きかの?」


 押し入れの中から出した円座をよこしながら、女性は私にそう尋ねた。その顔には、うっすらと笑みが浮かんでいる。


「す、好きってほどでは。駒の動かし方くらいは知ってますけど」


 天狗の里のとある広場。そこで大人たちが遊んでいた将棋に、私も混ぜてもらったことがある。駒の動かし方を教えてもらい、何度か対局をした。けれど、結果は惨敗に次ぐ惨敗。王様以外の全ての駒を捕られた対局もあった。加えて、妙な手を指すと笑われ、時間を使いすぎると「早く指せ」と指摘される。あれ以来、私は一度も将棋を指していない。


「それだけ知っているなら上出来じゃ。ほれ。盤の前に座らんか。一局付き合うがよい」


 将棋盤の前に置かれていた円座に腰かける女性。ビシリと背筋を伸ばして正座する姿は、どこか厳粛な雰囲気を感じさせた。


「……分かりました」


 小さく頷いて、私も将棋盤の前に座る。正直なところ、将棋なんてやりたくもなかった。難しい。つまらない。嫌な気持ちになる。将棋に対する私のイメージは散々なものばかりだったからだ。だが、ここで断ってしまえば、女性が不機嫌になるのは目に見えている。せっかくこうして女性の家まで来たのだ。面倒なことになるのは避けたい。


「「おねがいします」」


 シンと静まり返った家の中に、二つの声が重なった。


 女性が駒を持ち、動かす。それに合わせ、私も駒を進ませる。繰り返される同じようなやり取り。


 数手後、私の駒が女性に捕獲される。


「あ」


「ふ。こういう手があるのを覚えておいた方がいい。が、もしおぬしがこう指していれば……」


 女性は盤面を数手戻し、私とは違う手を指す。


「……そっか」


「気付いたようじゃな。さて、このまま続けるとするかの」


 女性との将棋は、昔指した将棋とは明らかに異なっていた。私が間違えた手を指すと、数手戻してまた再開。そして、どれだけ長考しようとも、何も言わずに私が指すのを待ってくれた。


「ふむ。なかなか良い手が飛んできたの」


「そ、そんなにいい手なんですか?」


「指したおぬしが聞いてどうする。さて、どうするか」


 腕組みをしながら考え込む女性。もともと鋭い目つきがさらに鋭くなる。数分後、女性の手が盤上に伸びる。放たれたのは、私の予想していたものと同じ手。


 意気揚々と駒を動かす私。


「…………」


「…………」


 訪れる無言の空間。けれど、私には、女性と会話をしているような気がした。言葉のない、将棋を介した会話。何とも言えない心地よさがそこにはあった。

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