第83話 どうして……

 瞬間、フワリと浮かび上がる彼女の体。私は、団扇に力を込めながら、彼女をゆっくりと岸へ。


 天狗の力の中には、物体を自由に操るというものがある。物体が重すぎたり大きすぎたりすると使えないが、人間一人くらい持ち上げることは造作もない。


 彼女が安全になったことを確認し、私は力を解いた。団扇をしまうのも忘れ、急いで彼女のもとへ。


「はあ。はあ。はあ。はあ。はあ」


 四つん這いで荒い呼吸を繰り返す彼女。その体は、ブルブルと震えている。寒さのせいか、恐怖のせいか。いや、きっと両方だろう。


「大丈夫? 助かってよかった」


 思わず、私は彼女を抱きしめていた。彼女の着物にしみ込んだ川の水が、私の服と体を濡らしていく。けど、そんなこと気にならなかった。


 大切な大切な私の友達。初めてできた人間の友達。もし彼女がいなくなってしまったら。とんでもなく恐ろしい想像が、私の腕の力をさらに強める。


「はあ。はあ。はあ」


「びっくりしたよね」


「はあ。はあ。はあ」


「怖かったよね」


「はあ。はあ。はあ」


「けど、もう心配ないから」


 彼女を安心させたくて、私は彼女に声をかけ続けた。何度も、何度も。


「はあ……」


「落ち着いた?」


「…………て」


 彼女の呼吸が整ってきた頃。不意に、彼女が何かを告げる声が聞こえた。


「あ、苦しかったかな? ごめん」


 そう言って、腕の力を緩める私。次に何が起こるかなんて、この時の私は考えもしていなかった。


「離して!!」


 突然、体に強い衝撃。気がつくと、私は地面に尻もちをついていた。視線の先にいるのは、両手を前に伸ばした彼女。彼女が私を突き飛ばしたのだと理解するのに、数秒の時間を要した。


「今、何したの?」


「……え?」


「私の体、浮かせたよね。それを使って。そんなこと、普通の人間じゃできない」


 彼女が私の手元を指差す。そこにあるのは、天狗の団扇。私が人間ではないことを示す証拠の一つ。


「あ、こ、これは……」


「あなた、もしかして」


「これはね……」


「人間じゃない?」


「う……」


 気がつくと、彼女の顔には、これまで見たことがないほど険しい表情が浮かんでいた。怒り、軽蔑、恐怖。いろいろなものが入り混じったかのような感情がそこにはあった。


「だましてたんだ。私のこと」


「…………」


「一体何が目的なの?」


「…………」


「私のこと、どうするつもりだったわけ?」


「…………」


 まずい。


 まずいまずいまずい。


 まずいまずいまずいまずいまずい。


 バレた。私が人間じゃないことが。ずっと隠してきたのに。里の皆に知られたら。いや、まずはこの状況を何とかしないと。


 必死に誤魔化す方法を考える私。だが、もう手遅れだった。


「ずっと友達だと思ってたのに」


「ね、ねえ。少しだけ私の話を……」


「来ないで!! このバケモノ!!」


 拒絶の言葉とともに、彼女は私からさらに距離を取る。そして、勢いよく立ち上がり、その場からいなくなった。


「どうして……」


 そんな私の呟きは、ゴウゴウと唸りを上げる川音にかき消されてしまった。

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