第82話 もう、こうなったら

 こうして始まった彼女との日々はとても刺激的だった。天狗の里にはない遊びもたくさん教えてもらったし、二人でいろんな所へ出かけた。彼女とのつながりで、数人の人間とも顔見知りになった。


 私は、何度も天狗の里を抜け出し、彼女に会うため人間の里へ向かった。もちろん、私の家族や他の天狗たちに知られないよう気をつけながら。といっても、私はもともと、天狗の里では友達もいないような影の薄い存在だったから、誰かに疑われるなんてことは全くなかった。


 彼女と出会ってからの一年は、あっという間に過ぎていった。これからも、彼女との楽しい日々が続いていく。私は、そう信じていた。




♦♦♦




「おー。結構流れ激しいね。それに深そう」


 彼女に連れてこられた川は、里から少し離れた所にあった。ゴツゴツとした大きな岩がそこら中に見え、川からは激しい水音が響いている。明らかに危険な場所。こんなに危険な場所へ二人だけで来るのは初めてかもしれない。


「ふふふ。すごいでしょう。スリルあるよね」


「あなたのお母さん、川に行くこと止めなかったの? 結構厳しい人なのに」


 彼女の母親とは、私が彼女の家へ遊びに行ったときに何度も顔を合わせている。その性格は、とても厳格。彼女がだらしなく力を抜いて座っていると、すぐに「やめなさい!」と強い口調で言うのだ。実は、私も注意を受けたことがある。娘の友達だからといって遠慮はしてくれない。


「川に行くって言わなかったからねー。散歩してくるってだけ言った」


「わお。悪いなー」


「私、もう十四歳なんだから。いつまでも子ども扱いしてほしくないよ」


 そう言って、彼女は岩の上を歩いて川へ近づく。お気に入りの着物が汚れないように、着物の裾をたくし上げながら。


「足、滑らさないようにしてよ」


「大丈夫大丈夫。あ、なにか見えた」


 興奮した様子の彼女。足元の川をじっと見つめた後、こちらに振り返って手招き。その顔には、とても晴れやかな笑みが浮かんでいた。


「何がいたの?」


「すごいもの。ねえ。あなたも早くこっちに来てよ。一緒に見よう」


「はーい。今行くよ」


 足を踏み出す私。胸が高鳴り、顔が自然とほころぶ。


 すごいものって何なのかな? 魚? 植物? 綺麗なものだったら嬉しいよね。ああ。楽しみだなあ。


 きっと数秒もしないうちに、私は彼女の横に立って川の中を覗き込むのだろう。そして、「すごいね」なんて言いながら、彼女と一緒に笑い合うのだろう。


 頭の中で膨らむ想像。早く彼女の所に行きたくて、私の足は速度を上げる。


 だが、その時。


「あ」


「え?」


 何が起きたのか、一瞬分からなかった。


 傾く彼女の体。伸ばされる手。ぐにゃりとゆがむ顔。まるで世界が時の刻み方を忘れてしまったように、彼女の体の傾きが、ゆっくりゆっくり大きくなっていく。


 そして。


「きゃあああああああああ!!」


 彼女の姿が、完全に私の視界から消えた。それと同時に聞こえる、ボチャンという大きな音。


「ちょ!?」


 私は、急いで先ほど彼女が立っていた所へ。私の視界に映ったのは、顔の上半分と右手だけを水面の上に出した彼女の姿だった。


「た、たす。がぼ。ごぼ。た、け。ぐぼ」


 なんとか顔全体を水の中から出そうとする彼女だったが、それも難しいらしい。彼女が顔を上げようとする度に、何かが彼女の足を引っ張っているかの如く顔が下がる。おまけに、その体がどんどん遠くへ流されていく。彼女の声にならない声が、必死に助けを求めていた。


「待ってて! 今助けるから!」


 キョロキョロと辺りを見回す私。だが、ここには私たち以外誰もいない。今から助けを呼びに行ったのではあまりにも遅すぎる。私一人で、この状況を何とかしなければいけないのは明白だった。


「掴めそうな木の枝……もない。もう、こうなったら」


 私は、無我夢中であるものを取り出していた。茶色の柄。柄の下に付けられた紫色の紐。ヤツデの葉に似た扇。


「そりゃ!」


 私は、苦しむ彼女に向かって天狗の団扇を振るうのだった。

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