第76話 びっくりした

 どこからか、「なんじゃ。恋仲ではないのか」という聞き覚えのある声が聞こえたような気がしました。ですが、今はそんな幻聴に振り回されている余裕なんてありません。僕の心臓は、もう破裂しそうなほどに鼓動を速めていたのでした。


 僕が伸ばした手の先。テンちゃんは、口を大きく開けて固まっていました。これほど驚くという言葉が似あう姿というのもそうそうないでしょう。


「…………」


「…………」


 僕たちの間を、沈黙が支配します。まるで、時が留まってしまったかのような錯覚。それを動かす権利を持っているのは、テンちゃん。僕はただ、テンちゃんの発する言葉を待つだけなのですから。


「びっくりした」


 テンちゃんの呟きが、僕の耳に届きました。


「……すいません。驚かせてしまって」


「いや、謝らなくていいよ。けど、理由は聞かせてほしいな。私と友達になりたいと思った理由」


 僕の真意を確かめようとするテンちゃんの質問。その瞳が、まっすぐにこちらを見つめています。


 僕は小さく息を吐き、口を開きました。


「ものすごく壮大な理由ってわけじゃないです。さっきも言いましたよね。僕、テンちゃんのことをもっともっと知りたいって」


「うん」


「友達になれば、テンちゃんのことを知りやすくなるんじゃないかなって思ったんです。ただの将棋仲間より、将棋友達っていう方がずっと」


「そっか」


「…………」


「……え。それだけ?」


「は、はい。それだけです」


 我ながら、なんと浅い理由でしょうか。言っていて、どうにも情けありません。別に、やろうと思えば、もっといい理由を作り上げることもできたでしょう。けれど、作り物の理由を言うのは何かが違う。そんな気がします。たとえ浅くても、たとえ情けなくても、僕は、ありのままの考えをテンちゃんに伝えたかったのです。


「…………」


 再びポカンと口を開けるテンちゃん。そして、数秒後。


「あはははははははははは」


 テンちゃんの笑い声が、リビングいっぱいに広がりました。


「ま、まさか。君が、友達になってなんて言うとはね。あはは。そんなこと、思いもしなかったよ。しかもその理由が、私のことを知りやすくなるからなんて。あははははは」


 ついにお腹を抱え始めるテンちゃん。その目には、うっすらと涙が浮かんでいました。きっと、あまりに笑いすぎているせいでしょう。


「わ、笑いすぎですよ」


「いやいや。笑わないとか無理。あははははははは」


 ああ、やっぱり、笑い飛ばされて終わりなんだ。覚悟はしてたけど、やっぱり辛いなあ。


 僕は肩を落としながら、伸ばしていた手を引っ込めます。軽く握った拳には、いつの間にかじんわりと汗がにじんでいました。


「ちょっとちょっと。君、何してるのさ」


「……え?」

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