第70話 これはもう恋慕じゃの

 その後の展開は想像するに難くないでしょう。僕のかくは取られ、攻め手はゼロ。これ以上指しても、僕の敗北は確実。


 ですが、僕は将棋を指し続けました。師匠さんに勝つ道を探しながら。


入玉にゅうぎょく狙いとは、なかなかやるではないか」


「師匠さんに勝つにはこれしかないですから」


「ふ。よい心掛けじゃ」


「ありがとうございます」


 入玉とは、自分の王様を相手の陣地に侵入させること。成功率は低いですが、一度陣地に入ってしまえば、相手からの攻めをかわしやすくなるのです。


 心なしか、先ほどよりも盤上全体がよく見えています。僕は、師匠さんからの攻めをギリギリのところでかいくぐりながら、王様を一手一手前進させていきました。


「さて、これでどうじゃ」


 そう言って、師匠さんは持ち駒のきんを盤上に配置します。それは、僕の王様の退路を断つ金打ち。


「う……」


「これで終わりかの?」


「い、いえ。まだまだ」


 僕と師匠さんの将棋が終局したのは、それから数手後のことでした。


「……負けました」


「うむ。よい将棋じゃった。楽しかったぞ」


 満足そうに告げる師匠さん。その頬は、安心したように緩んでいます。目つきは依然として鋭いままですが、睨まれているようには感じません。


 最初抱いていた師匠さんに対する大きな恐怖心。それはいつの間にか、僕の中からなくなっていました。


「負けちゃいましたけど、僕も楽しかったです。ありがとうございました」


「ほう。ここで礼が言えるとは感心じゃの。あやつにも見習ってほしいものじゃ」


 小さくため息をついて、師匠さんはテンちゃんの方に視線を向けました。


「あ。師匠さん。えっと……」


「言わずともよい。あやつを許すかどうかじゃろ。ちゃんと覚えておる」


「は、はい。その……テンちゃんのこと……」


「もちろん、許すとしよう」


「よ、よかったー」


 頷く師匠さんを見て、僕はホッと胸をなでおろしました。これでまた、明日からもテンちゃんと一緒にいられる。テンちゃんとの当たり前の日常が続けられる。その喜びで、僕は思わず飛び上がってしまいそうでした。


「なんじゃ。おぬし、あやつが許されたことがそんなに嬉しいのか。これはもう恋慕じゃの」


「……え?」


「ふむ。人間と天狗の恋か。やはり長生きはするものじゃ。珍しいものが見れる」


 僕を見ながらニヤリと口角を上げる師匠さん。


 恋慕? 人間と天狗の恋? 人間っていうのは僕だよね。じゃあ、天狗っていうのは……テンちゃん。つまり……この場合は……つまり……。


「い、いやいやいや! ぼ、僕とテンちゃんは別にそんな関係じゃないですよ!」


 僕は、首を左右に勢いよく振りながら、師匠さんの言葉を否定しました。


「はっはっは。初々しい反応じゃの。分かっておる。からかっただけじゃ」


「か、からかい……」


 何なんですか? 天狗っていう生き物は、僕をからかわないと気が済まないんですか?


 僕とテンちゃんは、ただの将棋仲間です。別に、それ以上でもそれ以下でもないんですから。


 …………


 …………


 ただの将棋仲間……か。

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