第69話 そんなーーーーーー!

 師匠さんの飛車ひしゃが、僕の陣地に打ち下ろされます。矢倉やぐらの弱点は、飛車を使用した横からの攻め。それを防ぐためには、持ち駒を消費するほかありません。ですが、それをしてしまえば、攻め手がなくなってしまいます。


 ここは……攻める。


 僕は、師匠さんの陣地に持ち駒のかくを打ちました。これを進化させてうまにすることができれば、勝負は分からなくなります。


「む。ここで攻めの手か。攻めっ気のある将棋は好きじゃぞ。じゃが……」


 そう言って、師匠さんが放った手は、攻めの一手。ですが、僕の矢倉を攻める手ではありませんでした。


「……あ」


 師匠さんの手は、僕の打った角を狙うぎん打ち。それにより、僕の角は身動きが取れない状況に。


 この角が取られたら……もう、勝ち目がない。


 自然と前のめりになる体。畳に立つ爪。吹き出す汗。角を助ける道を探すため、盤上と駒台の間を往復する視線。


 いや。


 テンちゃん。


 いやだよ。


 いなくなっちゃ。


 いやだ。


 どうしたら……。


 どう……したら……。


「のう、おぬし」


 僕の思考を遮ったのは、師匠さんの声。


 唇の震えを感じながら顔を上げる僕。視界に映る師匠さんは、とても不安定な輪郭をしていました。まるで、ぼんやりと膜がかかっているかのよう。


「なん、ですか?」


「なんですかじゃないじゃろ。将棋は楽しむもの。泣きながら指すものではないぞ」


「……え?」


 その時、ポタリと目元から落ちる一粒の水。自分が泣いている。そのことに気付くまで、少しの時間を要しました。


「ほれ。これを使うがよい」


 和服の袖下からハンカチを取り出し、僕に手渡す師匠さん。


「ありがとう、ございます」


「礼など不要じゃ。全く。おぬし、やはり勘違いしておるの」


 頭に手を当てながら、師匠さんは溜息を吐きました。


 師匠さんの告げた言葉の意味が分からず、僕は首をかしげます。


「か、勘違い……ですか?」


「そうじゃ。どうせ、自分が負けたら、あやつを許す約束がなくなるとでも思っておるんじゃろ」


 …………


 …………


 今、師匠さんは何と?


「えっと……ち、違うん……ですか?」


「当たり前じゃろ。そもそも、あやつを許す条件は『わしと将棋を指すこと』じゃ。『わしに将棋で勝つこと』ではない。おぬし、ちゃんと話を聞いておったのか?」


 呆れたような笑みを浮かべる師匠さん。


 …………


 …………


 つまり、テンちゃんは……。


 僕の前からいなくなったり……しない。


「そんなーーーーーー!」


 傾く視界。僕の体を受け止める畳。慣れ親しんだい草の香り。師匠さんから渡されたハンカチを使うまでもなく、目元の涙は消え去っていました。


「はっはっは。勘違いしたのはおぬしじゃ。わしは謝らんぞ」


「恥ずかしい。消えてしまいたい」


「自虐は後にせい。そんなことより、対局が途中じゃ。ここで投了したり手を抜いたりなどしてみよ。わしの機嫌を損ねて、あやつを許さないなんてことにもなりかねんぞ」


「そ、それは困ります!」


 勢いよく上半身を起こす僕。僕の声が、和室全体に響き渡ります。


「あっはっはっはっは。あやつのために結構なことじゃ」


 必死な僕を見ながら、師匠さんはお腹を抱えて笑うのでした。

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