第68話 ありがとう

 これなら……。


 僕は、盤上のを一マス移動させ、師匠さんの歩にぶつけます。


「よい手じゃ」


 ぶつけられた歩を取る師匠さん。その歩を、ぎんで取り返す僕。前進した銀が、師匠さんの王様に迫ります。


「ふむ。これは歩を打たねばならんの」


 そう言いながら、師匠さんは、先ほど取った歩を銀の前に打ち下ろしました。これを放置していては、次に僕の銀が取られて大損してしまいます。仕方なく銀を引くと、次にやってきたのは師匠さんからの攻め。師匠さんのかくが駒台から盤上に打ち下ろされ、僕の飛車ひしゃを狙います。


 やっぱり強い。


 攻めの手と守りの手を臨機応変に使い分ける師匠さんの将棋は、確実に僕を追い詰めていました。僕の攻めは全く通用せず、逆に師匠さんの攻めはじわりじわりと僕の陣形を崩していきます。


 けど、まだ何とかなる……はず。


 必死に次の手を考え、駒を打ち下ろしたその時。どういうわけか、頭の中にテンちゃんの姿が浮かび上がりました。


『君、私のために必死だねー』


 頭の中のテンちゃんが、ニヤニヤと笑いながらそう告げます。口元には、おなじみの真っ白な八重歯。分かりやすいくらいのからかいモード。


『そりゃ、必死にもなりますよ』


『へー。どうして?』


『だって……』


『うん』


『テンちゃんのいない生活なんて御免ですから』


 毎日一緒に将棋を指して。毎日一緒に晩御飯を食べて。毎日たくさんからかわれて。いつの間にか、当たり前になっていたテンちゃんとの日常。たとえ一年だとしても、それが突然無くなることに僕は絶えることができるでしょうか。


 僕は知っているのです。当たり前が崩れ去った時、自分に何が起こるのかを。ずっと傍にいた人が突然いなくなる苦しさと虚無感、そして、心を覆う黒いモヤモヤを。


 けれど今なら、まだどうにかすることができます。僕が師匠さんに勝てば、テンちゃんとの日常を失わずに済むのです。だから……。


『テンちゃん、待っててください』


 負けるわけには、いかないのです。


 僕の言葉に、『……そっか』と言いながら優しく微笑むテンちゃん。次の瞬間、ゆっくりと腕を前に伸ばします。そして……。


 パチリ。


 その音に、ハッと我に返る僕。盤上を見ると、師匠さんの飛車が移動していました。


 いけないいけない。集中しないと。


 首を小さく左右に振り、僕は盤上に向き直ります。きっと、さっきのテンちゃんとのやりとりは、頭を酷使しすぎたせいで生まれた妄想でしょう。


 局面はまだ中盤。有利なのは師匠さん。それでも、大差がついているようには見えません。


『ありがとう』


 盤上を見つめる僕の頭に、何かが優しく振れたような気がしました。

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