第67話 違う

「「よろしくお願いします」」


 僕と師匠さんの対局が始まりました。


 これはテンちゃんの一年がかかった対局。絶対に負けるわけにはいかないのです。僕は、序盤から時間を使いながら、慎重に駒を進めていきます。


 対して師匠さんは、一手一手にほとんど時間をかけていません。慣れた手つきで陣形を整えていきます。


 十数手後。


「ふむ。相矢倉あいやぐらなど久々じゃのう」


 不意に呟く師匠さん。その声は、どことなく弾んでいるように聞こえました。


 僕と師匠さんが指しているのは、矢倉やぐらという戦法。とても長い歴史を持ち、将棋をたしなむ人なら誰もが一度は指すのではないでしょうか。ちなみに、両者が矢倉を指している場合、その対局は相矢倉という言葉で表されます。


「おぬし、よく矢倉を指すのか?」


「えっと、頻度は多いと思います。相手にもよりますけど」


「うむ。最近は、矢倉に組ませない戦い方も増えてしもうた。『矢倉は終わった』などという言葉もあるくらいじゃ。が、矢倉を愛用する者としては、こうして相矢倉の将棋を指せるのは嬉しいの」


 パチリと駒音を立てながら、師匠さんはそう告げました。どうやら、この将棋は師匠さんのお気に召したようです。


 後は、僕がどう師匠さんに喰らいついていくか。将棋というゲームは、知識量がものを言います。おそらく、僕と師匠さんとでは、知識量に雲泥の差があるのは想像に難くありません。だからといって、僕が百パーセント敗北するわけではないのです。一手のミス。一手の隙。そこを突くことができるかどうかで、対局の流れは変わるのです。


 お互いに陣形を整備し終えると、いよいよ中盤戦。ぶつかり合う駒と駒。戦いの火が、少しずつ大きくなっていきます。


 繰り返される戦いの途中。僕は小さく息を吐き、視線を盤上から横にそらしました。視界に映るのは、眠るテンちゃんとその奥にある母の仏壇。


 もしここで僕が変な手を指したら……いや、今はそんなこと考えちゃだめだ。


 盤上に視線を戻し、次の手を考える僕。一手も間違えることができない。その緊張感が、僕の思考を揺さぶります。


 ここは飛車ひしゃを真ん中に…………違う。


『―――』


 じゃあ、今のうちに端から…………違う。


『―――し』


 それならぎんを…………違う。


「おぬし!」


「は、はい!」


 突然耳に届く声。驚いて顔を上げると、師匠さんが鋭い視線をこちらに向けていました。


「さっきから呼んでおろう。返事くらいしてほしいものじゃ」


「す、すいません」


 師匠さんに謝る僕。先ほどまで頭の中にあった思考は、すでにどこかへ弾け飛んでいました。


「まあよい。そんなことより、おぬし、前のめりになりすぎじゃ。盤が見にくいではないか」


「え? ……あ」


 言われて気付きます。僕の頭が、盤のほぼ真上にあることに。これでは、師匠さんの方から盤が見にくいのも当然です。


「うああ! ご、ごめんなさい!」


 急いで僕は上体を起こします。それと同時に、顔の温度が急激に上昇するのを感じました。


 そんな僕を、怪訝そうに見つめる師匠さん。


「おぬし。まさか、思い違いをしておるのではあるまいな」


「お、思い違い?」


「……いや、やめておこう。そんなことより、ほれ。おぬしの手番じゃ。今度はあまり前のめりになりすぎぬようにな」


「は、はい」


 師匠さんに促されるまま、僕は少し距離を取って盤上に向き直りました。

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