第66話 では、始めるかの
訪れる沈黙。時が止まっているかのような錯覚。ですが、壁に掛けてある時計が、カチカチと確かな時を刻んでいました。
「……よかろう」
その声に、僕は勢いよく頭を上げます。師匠さんの顔には不敵な笑み。そして、髪はうごめくことなく垂れ下がっていました。
「あ、ありがとうございます!」
「礼などよい。ただ、一つだけ条件がある」
「条件、ですか?」
「うむ」
頷く師匠さん。果たして、どんな条件を提示してくるのでしょうか。それが分からず、身構えてしまう僕。
師匠さんは、続けてこう言いました。
「おぬしがわしと将棋を指してくれたら、こやつを許すとしよう」
「……え?」
テンちゃんを許す条件が……将棋?
「なんじゃ。わしと将棋を指すのは嫌かの?」
「い、いえいえ。そんな……」
「ならよかろう」
一体師匠さんは何を考えているのでしょうか。テンちゃんを許すことと将棋を指すこと。そこに、どんなつながりが…………あ。
「し、師匠さん」
「ん?」
「師匠さんって、テンちゃんの『将棋の師匠』なんですか?」
思い返せば、僕は、師匠さんがテンちゃんにとって何の師匠であるのかを知りません。もし将棋の師匠であるなら、テンちゃんを許す条件に将棋を提示したのも納得がいきます。テンちゃんは超が付くほどの将棋好き。そのテンちゃんを育てた人なら、将棋で何かを解決しようという考え方を持っていてもおかしくないですからね。
そしておそらく、将棋で僕が不甲斐なく負けようものなら……。
「む。言ってなかったかの。いかにもその通りじゃ」
テンちゃんを許さないなんてことにも……。
「そう、なんですね」
「言っておくが、わしは強いぞ。手加減は無用じゃ。本気でかかってくるとよい」
「…………分かりました」
師匠さんに気付かれないよう小さく深呼吸した後、ゆっくりと頷く僕。これ以上ないほどの覚悟を決めた僕の表情は、もしかしたらカチコチに硬くなっていたかもしれません。
それから、一旦テンちゃんを和室へ運び、押し入れにあった毛布をかけます。そういえば、テンちゃんの寝顔を見るのは初めてですね。こんな形で見たくはなかったですが。
「ほう。おぬし、足付きの将棋盤を持っておるのか」
僕の背後で、感心したようにそう告げる師匠さん。振り返ると、座布団に座った師匠さんが、しげしげと将棋盤を眺めていました。
「母方の祖父が亡くなった時に、譲ってもらったんです。物置に眠らせておくより孫に使ってもらった方が、おじいちゃんも喜ぶだろうって母が」
「なるほど。おぬしの祖父も将棋が好きだったんじゃの。よきことじゃ」
会話にどこか既視感を抱きながら、僕はもう一つの座布団に腰を下ろします。目の前には、ビシリと背筋を伸ばし、着物の衿を正す師匠さん。
「では、始めるかの」
「……はい」
師匠さんの低く重い声を合図に、僕は盤上に置かれた駒袋に手を伸ばしました。
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