第58話 ムグムグムグ
「ほ、ほわああああああ!」
目の前に置かれた様々ないなり寿司。チーズ入り。山菜入り。鶏肉入り。キンパ風。エトセトラ。テラテラと油輝くそれらを見て、テンションを爆上がりさせている天狗少女は一体誰でしょう。
そう、テンちゃんです。
「そこまで喜んでくれると、作ったかいがあるってもんだ。ほら。こっちはおまけ」
ニコニコと笑いながら、店主さんは新しいいなり寿司をテンちゃんの前に置きました。
「おまけまで! ひええええ!」
「て、テンちゃん。落ち着いてください」
「にひひ。いただきまーす!」
どうやら、テンちゃんの耳に僕の声は届かなかったようです。ものすごいスピードで、いなり寿司にがっつき始めます。幸せという言葉がこれほどまでに似合う姿というのもそうないでしょう。
「ほら。彼氏さんも食べな」
「あ。い、いただきます」
彼氏さんと呼ばれることにむずがゆさを覚えつつ、僕はいなり寿司を口に運びます。鼻へ抜ける爽やかな香り。口内に広がる揚げの油と甘さ。酢飯の程よい酸味。噛むほどに、僕の中の食欲が増進されていくのを感じました。
「これ、すごくおいしいですね」
「へへ。ありがとよ」
照れくさそうに口角を上げる店主さん。
チラリと横を見ると、テンちゃんはまだいなり寿司にがっついていました。十個ほどあったそれは、すでに半分が無くなってしまっています。
テンちゃん、本当にいなり寿司が好きだなあ……。
「ねえ、テンちゃん」
ムグムグムグ。
「おーい」
ムグムグムグ。
あ、聞こえてない。
僕は、テンちゃんに話しかけるのを諦め、湯呑に入ったお茶を一口すすります。
本当は、テンちゃんがいなり寿司を好きになったきっかけを聞いてみたかったのですけど。まあ、今はやめておきましょう。
「…………」
そういえば、僕ってテンちゃんのことあんまり詳しく知らないなあ。
天狗。ものすごい力が使える。母と友達。少し抜けている。服作りでお金を稼いでいる。好きなものは、将棋といなり寿司。あ、相手をからかうこともか。嫌いなものは、人混み。
僕が思い浮かべることのできるテンちゃんの姿。母から聞かされていたこと。テンちゃんと会って知ったこと。それら全てを挙げても、テンちゃんについて僕が知っている情報は、表面的なものばかり。特に、母と出会う以前のテンちゃんがどんなふうに生活していたかなどは、全く知らないのです。
別に、テンちゃんの全てを知りたいと思っているわけではありません。そもそも、自分とは違う他者について詳しく知らないなんて、当たり前のことですからね。
けど、何でしょうかね。このモヤモヤは……。
「おかわり!」
「おー。彼女さん。あっという間だね。次は何がいい?」
「おまかせ十個で!」
「あいよ!」
モヤモヤを抱える僕の横。テンちゃんと店主さんの元気な会話声が響くのでした。
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