第51話 いやいやいやいや
「え……」
一体何が起こっているのでしょうか。テンちゃんは、僕に呆れていたのではないのでしょうか。どうしてテンちゃんが、僕に「ごめん」なんて言う必要があるのでしょうか。
僕の頭の中は、そんなたくさんのはてなマークで埋め尽くされていました。
「本当に、ごめん」
「ちょ、ま、待ってくださいよ」
「…………」
「ど、どうして、テンちゃんが謝るんですか?」
思わず大きな声を出してしまう僕。その声に、ロビーにいた数人がこちらへ視線を向けます。普段の僕なら、恥ずかしがってこの場を去ろうとするかもしれません。ですが、今はそんなことどうでもいいのです。
「将棋で負けたのは僕なんですよ。あれだけテンちゃんに特訓してもらったのに、その成果を発揮できなかったんです。しかも、テンちゃんは、人混みが苦手なのに応援まで来てくれて。それなのに……」
「違う。私がもっと上手く特訓できてたら、君は勝てたはずなんだよ。それに、君のあの
そう言って、僕に頭を下げるテンちゃん。
テンちゃんの謝る理由。それは、負けた原因がテンちゃん自身にあるという思い込み。確かに、僕があの手を指したのは、テンちゃんの指導を思い出したからです。けれど、理由が分かっても納得ができるかどうかは別というもの。
「いや。テンちゃんは何も悪くないです。悪いのは、盤面をよく見てなかった僕ですよ」
「いやいや。私がもっとちゃんとしてればよかったんだよ」
「いやいやいや」
「いやいやいやいや」
お互いに譲らない僕たち。思えば、こんなふうに言い争いをしたのは初めてかもしれません。
僕たちが冷静になったのは、それから数分後のことでした。
「……やめましょうか」
「……だね。なんか、疲れたよ」
ソファーの背もたれに体重を預けるテンちゃん。ぼんやりとした目で、ロビーの天井を見つめます。相当疲労が溜まっていることは明白でした。苦手な人混みの中にずっといて。自分のせいで僕が負けたなんて責任を抱え込んで。疲れないなんてありえませんよね。
だからこそ、僕は告げるのです。テンちゃんの疲れが少しでもなくなってほしいという願いを込めて。
「ねえ、テンちゃん」
「何?」
「ありがとうございました」
僕の言葉に、テンちゃんの目が大きく見開かれます。顔をこちらに向け、「なんで?」と一言。
「さっき言い争ってた時、ちゃんとお礼言えてなかったこと思い出しまして」
「お礼?」
「はい。特訓してくれたこととか、応援に来てくれたこととか」
「…………」
「僕、この大会にここまで本気で臨めたの、初めてだったんです。今までは、負けるのは仕方ないって思いで出場して、実際に負けたら、ほらねって投げやりになってました。でも、今日は違いました。将棋には負けちゃいましたけど、テンちゃんのおかげで、本当に楽しい大会でした」
「…………」
「だから、ありがとうございます」
「…………」
目を見開いたまま、テンちゃんは僕を見つめます。やがて、ばつが悪そうに唇をかみ、顔をもとに戻しました。
無言で天井を見上げるテンちゃんと、テンちゃんの言葉を待つ僕。僕たちの周りには、得も言われぬ不思議な空気が漂っているように感じます。
「……私は」
とてもとても小さな呟き。それは、僕に向かって言っているというより、
「君のためになれてたのかな?」
自分自身に問いかけているように聞こえました。
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