第35話 わひゃ!

「お、覚えてくれてたんだ」


 弾んだ声でそう告げる天霧あまぎりさん。


「まあ、あの時はすごくアワアワしちゃったから」


「ふふっ。そ、そうだよね」


 影で覆われたコミュニティセンターの裏手。そこに流れるのは冷たい空気。ですが今、僕と天霧さんとの間に流れる空気は、どこか温かく感じられます。


「あれからだっけ。僕たちがよく話すようになったの」


「…………」


「天霧さん?」


 一体どうしたのでしょう。僕の言葉に、天霧さんが無言で下を向いてしまいました。


 そして数秒後。


「ね、ねえ。た、立花たちばな君」


 ゆっくりと顔を上げ、天霧さんは僕を見つめます。何かを決意したかのような鋭い瞳に、思わず上半身を後ろに引いてしまう僕。


「えっと……」


「わ、私ね」


 一歩、僕に近づく天霧さん。


 その時、ビュッと音を立てて吹く風。なびく天霧さんの前髪。その後ろから現れる綺麗な左目。


「あ、天霧さん?」


「わ、私、ずっと」


 さらに一歩、僕に近づく天霧さん。


 僕の心臓が、突如として早鐘を打ち始めます。ドクドク、ドクドクと。制御なんてききそうにありません。


 え? 


 何? 


 天霧さん、どうしたの? 


 僕、今から何されちゃうの?


「ず、ずっと、立花君のこと」







「おーい。二人ともいるー?」

「わひゃ!」







 建物の影から姿を現したのは、我らが先生でした。その急な登場に驚いたのでしょう。天霧さんは、上ずった声とともに僕から距離を取りました。


「やっぱりここにいた。一体何し……」


 こちらに歩み寄ろうとしていた先生。ですが、何かに気がついたのか、その足をピタリと止めました。


「せ、先生」


「あー。えっと」


「…………」


香奈かな君、ごめん」


 申し訳なさそうに手を合わせながら、先生は天霧さんに謝ります。そして、一瞬のうちに、来た方向と同じ方へ戻ってしまいました。まるで忍者のような素早さ。これほどまでに機敏に動く先生を見たのはいつ以来でしょうか。


「…………」


「…………」


 漂う気まずい雰囲気。チラチラとお互いの顔色をうかがう僕と天霧さん。


 先に口を開いたのは僕でした。


「あの、天霧さん」


「ひゃ、ひゃい!」


「さっき、何て言おうとしてたの?」


「ふえ!? え、えっと……………………た、立花君のこと……………………って」


「ん?」


「……………………そ、尊敬してるって」


 真っ赤な顔。小刻みに震える体。天霧さんの呟きはとてもとても小さくて、聞き取るのがやっとでした。


「そっか」


「う、うん」


「僕も、天霧さんのこと尊敬してるよ。これからもよろしくね」


「……………………ヨ、ヨロシク」


 そう言って、天霧さんはゆっくり踵を返します。その動きは、まるでさび付いたロボット。ギギギという嫌な音が聞こえてくるかのようでした。


「あ、天霧さん?」


「モ、モドロウカ」


「う、うん。戻るのは賛成なんだけど。だ、大丈夫?」


「ダ、ダイジョウブ、ダイジョウブ」


「絶対大丈夫じゃないでしょ!」


 フラフラと進む天霧さんの隣を、同じペースで歩く僕。


 僕たちが歩き始めてしばらくして。どこからか『ダメだったか―』という聞き覚えのある声が聞こえた気がしました。


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