第32話 修羅場?

 パチリ……パチリ……パチリ……。


 ゆっくりと姿を変える盤面。形勢は、攻めを続けている天霧あまぎりさんがほんの少し有利に見えます。ですが、実際のところは分かりません。テンちゃんと天霧さん。二人の棋力は僕よりも上。きっと二人の目には、僕なんかでは捉えることのできない未来の盤面が見えていることでしょう。将棋とは、得てしてそういうものなのです。


「うん。大丈夫」


 突然、テンちゃんが何かに納得したように頷きました。そのまま、盤上のに手をかけ、前へと前進させます。


 ん? それでいいの?


 思わず首をかしげる僕。まあ、そうしてしまうのも無理はないでしょう。なぜなら、テンちゃんが指した一手は、天霧さんの攻めを完全に無視したものだったのですから。


「……端攻め」


 僕の耳に届く、天霧さんの呟き声。


 そう。テンちゃんの狙いは、天霧さんと同じ端攻めだったのです。といっても、天霧さんが攻めている方とは反対側ですが。


 ここって、受けの手を指すのが自然なんじゃ?


 もし僕がテンちゃんの立場なら、天霧さんの攻めを完全に受けきるまで、攻めの手を指そうとは思いません。先に攻めを仕掛けたのと、後から攻めを仕掛けたのでは、前者の方が心情的にも有利なはずですからね。 


 しかし、そんな僕の考えは、すぐに否定されることとなりました。


「…………」


 じっと盤上を見つめた後、キュッと唇をかむ天霧さん。攻めを一旦やめ、受けの手を繰り出します。


 ですが、おそらく想定通りだったに違いありません。テンちゃんは、ノータイムで桂馬けいまを跳ね、端攻めを続けていきます。


「……そっか」


 ここで、ようやく気付く僕。


 テンちゃんの駒台には、歩が四つ置かれています。それは、端攻めをするには十分な枚数。序盤のぶつかり合いで交換された歩。それに加え、天霧さんが端攻めをする際に消費した歩。それらが今、天霧さんの王様の囲いを端から崩そうとしているのです。


 思考時間がどんどん長くなっていく天霧さん。それに対し、ほぼノータイムで駒を動かし続けるテンちゃん。二人の差は、確実に広がっていきます。


「彼女……テン君、だったかな? 強いね。香奈かな君があそこまでやられるなんて」


 不意に、僕の後ろから小さな声が聞こえました。振り返ると、そこには二人の対局を見守る先生の姿が。


「そうですね。テンちゃんがこっちに引っ越してきてから何回も将棋指してますけど、僕、今まで一回も勝ったことなくて。いつもボコボコにされちゃうんです」


「なるほど。そんなに強いなら、ぜひ来週以降もここに来てほしいね。ま、それもこれも蒼空そら君にかかってるわけだけど」


 僕の肩に手を置き、優しく微笑む先生。


「えっと……言ってる意味が分からないんですけど」


「意地でも修羅場は回避してね。将棋教室の平穏のためにも」


「いや、本当にどういうことなんですか?」


「じゃあ、任せたよ」


 僕の質問に答えることなく、先生はゆっくりと踵を返して大会議室の外へ。トイレにでも行く途中だったのでしょうか。


「修羅場?」


 モヤモヤした気持ちを抱えたまま、対局する二人の方へ視線を戻す僕。


 盤上では、テンちゃんのかくが天霧さんの陣地に入り、うまへと進化していました。

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