第9話 そう来なくっちゃ

 将棋が中盤に差し掛かると、お互いの思考時間が一気に長くなりました。といっても、僕が長考して指した手に対して、テンちゃんは一分もかけず次の手を指してきます。加えて、局面はテンちゃんの優勢。ここで勝負に出なければ、差がどんどん開いていくことは明白です。


 僕は、取られそうになっている自分の桂馬けいまを見捨て、駒台の飛車ひしゃをテンちゃんの陣地に打ち下ろしました。


「おー。桂馬もらっていいんだ」


「まあ、その間に少しでも攻めていけばいいかなって」


蒼空そらくーん。見捨てないでー」


「……その裏声何ですか?」


「君の桂馬の声だよ」


 僕の口から漏れる「ええ……」という呆れ声。テンちゃんは、そんな僕を見ながら満足げに口角を上げます。そして、取った桂馬を駒台に置きました。


「この恨み、はらさでおくべきかー」


「やめてくださいよ」


「ごめん、ごめん」


 謝りながらニヒヒと笑うテンちゃん。ここまで緊張感のない将棋というのも久々です。そういえば、母も時々駒の声を代弁していましたね。テンちゃん譲りなのか、それとも二人が似ているだけなのか。どちらにせよ、こんな将棋もいいなと思っている自分がいることは、紛れもない事実でした。


 パチリ…………パチリ……………………パチリ……。


 次々と変わっていく盤面。一手一手開いていく差。テンちゃんの鋭い攻めは、僕が攻める機会を完全に奪ってしまっていました。僕の王様を守っていた駒たちが、テンちゃんによって次々と剝がされていきます。


「さて、この桂馬はどうやって受ける?」


「これは……どうしたら」


 テンちゃんが駒台から盤上に打ち下ろした桂馬。これを放置しておけば、次にかくきんの両方が狙われる最悪の形になっていまいます。いわゆる、『ふんどしの桂』というやつです。ですが、それを防ごうにも全くいい手が思いつきません。


「私を捨てた恨み、しっかり償ってもらうわー」


 数分前に聞いたばかりの裏声。どうやら、僕の桂馬はとてつもなくやばい性格をしていたようです。やっぱり、あの時、攻める前に桂馬を逃がしておくべきでしたね。


「厳しい……」


「お、投了かな?」


 盤上から顔を上げたテンちゃん。したり顔を浮かべながら、挑発するようにそう告げます。


「……いえ。まだまだ頑張ります」


 首を横に振る僕。ここから勝つなんて、おそらくプロでも難しいでしょう。一矢報いることすらできず、僕は負けてしまうのでしょう。けれど、諦めるということだけはしたくありません。だって、ここで諦めてしまったら、せっかくのテンちゃんとの将棋が終わってしまうのですから。


「そう来なくっちゃ。さて、君はどんな返事をくれるのかな?」


 テンちゃんの一手に対する僕の返事。それを放つことができたのは、かなりの長考をした後のことでした。

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