第7話 復活の日

 心臓を鍛える主旨からは逸脱していないまでも、クロスバイクで走りながら創作のネタを探すようになった。出会った人々の話に耳を傾けて心に深く刻み込んだ。見慣れた風景も時間帯によっては雰囲気を変える。昼夜を問わずに走り続けた。

 日が暮れたあとには野生動物と多く出くわした。その筆頭が鹿だった。閑散とした道路をのんびりと歩いている。

 クロスバイクのライトに照らされると決まって跳んで逃げた。俊敏で目を見張る速さを発揮した。道路から逸れて垂直に近い山の斜面を登っていく時は、その猛々しい姿を止まって眺めた。

 一日で得られた雑多な情報は賞金で購入したパソコンに漏れなく記録した。その間にアイデアが膨らみ、以前に保存したものと結び付いて新たな物語が生まれることもあった。

 そのような日々を繰り返している間にゆっくりと希望がはぐくまれた。生み出した作品で生計を立てようと。小説家、エッセイスト等の呼び名には関心がなかった。文章で食べていけるようになることが何よりも大切だった。


 クロスバイクの一日の走行距離が百キロを超えた。夏場と真冬は厳しいが過ごし易い春や秋は時に三桁の大台に乗った。

 その中、あることに気が付いた。右胸の反応がない。何時からなのか。ペースメーカーの植え込み手術を受けて十年の月日が経った。電池が切れたのかもしれない。思い当たる点が多すぎて頭を抱えそうになる。

 夜になって布団に潜り込む。目が冴えて一向に眠れない。このまま瞼を閉じると明日を迎えられないのでは。薄暗い天井を見ていると、その思いが強くなる。

 翌日、しょぼつく目で病院に向かう。検査後に担当医にペースメーカーの状態を訊いた。思った通り、電池は切れていた。次の手術が確定した。痛みを覚悟したところで担当医が朗らかに笑った。

 理由を聞かされた私は涙ぐんだ。細い血管が太くなって心臓を助ける動きをしていた。今の状態であれば電池交換の必要がないと太鼓判を押された。

 十年を費やして行った努力が報われた。運動によって心臓は鍛えられ、輝かしい日常をこの手に取り戻した。私は椅子に座った状態で頭を下げた。零れ落ちる涙を見られたくないと思う気持ちもあったが、素直に感謝した。

 病院を出て、すぐに後ろを振り返る。もう会うことはない担当医に向かって、今一度、深々と頭を下げた。


 就職活動の再開、とはならなかった。クロスバイクで走り、集めた情報を元に作品を生み出す。一か月の間に二十を超える作品を送り出したこともあった。

 結果の入選に浮かれ、落選は更なる力となって意欲を高めた。文章で食べるという信念は決して折れない。願いが叶うまでクロスバイクと共に走り続ける覚悟は出来ていた。

 右胸のペースメーカーは入れたままになっている。若々しい体型に戻って少し出っ張りが目立つ。それも個性と受け入れた。


 これからが身命をした作家人生の始まりである。

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