第6話 兆し

 クロスバイクのおかげで移動範囲は急速に広がった。街中は車の交通量の関係なのか。走っていると喉がいがらくなった。

 自然と北を選ぶようになる。山間の道には川もあり、さぎの姿を目にする機会に恵まれた。たまに猛禽類が大空を悠々と旋回する。ペダルを漕ぎながら憧憬どうけいに似た眼差しを向けた。新鮮な出会いに引っ張られ、走行距離は飛躍的に伸びた。

 最初の難関は山越えだった。急勾配きゅうこうばいな上にわざと距離を伸ばすように激しく蛇行していた。何度も足を着いて息を整え、諦めずに挑んだ。時間と体力の関係で引き返したこともある。

 二か月が過ぎた春先、遂に峠へ到達した。サドルに座った状態で片足を路面に着ける。眼前の下り坂を揺らぐ心で眺めた。

 帰り道は一本しかない。爽快な下り坂を堪能したあとは、坂道になって行きと同じ苦しみを味わうことになる。それどころか疲労が溜まって、今以上の苦難になることが容易に想像できた。

 右胸が反応した。止まっていてもペースメーカーは動いている。

 私はペダルを踏み込んだ。風となって下り坂を突っ切った。


 ある日、右胸に近いところに痛みのようなものを感じた。無意識にぶつけたのだろうか。それにしては肌の色に変化がなく、内出血の跡も見られない。しかも痛みは断続的だった。全く問題はないと言い切れる程の知識を持ち合わせていないので判断に迷う。

 通院を怠ったことへの批難を覚悟して久しぶりに病院を訪ねた。心配は杞憂きゆうに終わる。検査を終えたあとの診察で担当医は親し気な調子で痛みの原因を口にした。ペースメーカーと心臓を繋ぐリード線の一本が断裂していたという。

 二回目の入院が早々に決まり、新たなリード線を体内に埋め込んだ。手術時間は非常に短く、過去の痛みの再現にはならなかった。ただし別の不満が生じた。電池交換がされていなかった。そこで初めて勘違いに気付いた。

 ペースメーカーの電池交換とは懐中電灯の電池を交換するような単純なものではなかった。本体のジェネレーターを丸ごと交換する手術だった。

 程なくして日常が戻ってきた。リード線の断裂と電池交換の時期が重なれば、等と思いながら相棒のクロスバイクを走らせた。


 晩に家族四人で鍋を囲んでいた。その時、廊下に置かれた自宅の電話が鳴った。弟が対応して慌てた様子で駆け戻る。有名な出版社の名を早口で喋り、私へ出るように促す。電話の理由がわからないまま受話器を耳に当てた。要件を訊いてようやく過去を思い出す。

 その日もクロスバイクで走っていた。走行中に偶然、見つけた書店に休憩を兼ねて立ち寄った。愛読していたシリーズ物の小説を確認して適当に雑誌を手に取った。流し読みしていると短編小説の募集に目が留まる。魔王を主人公にしたコメディが勢いよく頭の中に流れ込んだ。

 家に帰ると一気に書き上げた。翌日、すっきりした気分で印刷。封筒に収めて郵便局に持っていった。

 そのやっつけのような作品が選ばれた。賞金は出ないが雑誌の小冊子として添付された。実際に書店で購入して読むと挿絵があり、小説らしさを醸し出す。合わせて載せられていた選評では粗削りの文章が読み難いと指摘されていた。ネタを惜しまないパワーがあるとも。それなりに見るところはあったらしい。

 切っ掛けとしては十分だった。短時間で書けるショートショートを次々と生み出して応募先に送り付けた。少ないながらも賞金の出るところを狙った。

 下手な鉄砲にしては命中率が悪くない。時に一か月の飲み代を上回る成果を挙げた。心臓を理由に落とされることはなく、作品単体で評価される点がとにかく無性に嬉しかった。

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