第2話 心臓が壊れた日

 将来を見据えた行動等ではなかった。私は日々、無心で身体を鍛えた。

 一番、古い記憶は小学校低学年の頃で、親から与えられた何の変哲へんてつもない自転車を一人で乗り回していた。次第に距離が伸びて帰りは決まって夕暮れとなった。

 こっそりと玄関の扉を開けて中に入っても気付かれる。母は台所から強い口調で叱り付けた。その度に私はふくれっ面となって謝った。多少は反省する気持ちもあって自転車は日曜日に集中して乗るようになった。

 家にいる時は腕立て伏せや腹筋に精を出した。とにかく回数をこなす。自己記録を更新して喜ぶという当たり前の感情は持ち合わせていなかった。自分自身が満足するまで鍛錬を続けた。

 その姿勢は中学生になっても変わらない。反面、所属するクラブは美術部や写真部で体育会系ではなかった。大きな競技会に出て優秀な成績を収めたいと思ったことは一度もない。何時しか、鍛える行為が目的となっていた。

 高校生になると運動量は倍増した。大学進学に有利になるので陸上部に所属。毎日の朝練を欠かさず、可能な限り周回を重ねた。授業が終わると本格的な練習で汗を流す。帰宅後は近所をコースに見立てて十キロ程度の走り込みを自主的に行った。余った僅かな時間は筋力トレーニングで占められた。

 暑い季節の到来。高校生になって初めての夏を迎えた。その日の陽射しは特に厳しく大気が揺らいで見える。

 学校のグラウンドの土は乾燥を極めた。僅かな風で砂煙を上げる。放課後、私はいつも通り、整ったフォームで軽快に走った。自身が風となって砂を巻き上げる。勢いは止まらず、全力の走りを促した。

 程なく突然の違和感に襲われた。視界に入る光景がコマ送りのような状態になった。加速をしたと思ったが何か違う。時間が抜け落ちているように感じた。

 意志に反して足が止まる。眩暈めまいと吐き気が視界を歪ませる。私は耐えられず、その場に膝を突いた。同じように走っていた部員達が駆け寄って早口の言葉を掛けるが耳の中で反響して聞き取れない。頭が急速に冷えて意識が柔らかくふやけていった。


 倒れることは免れたが身体の異常は伝わった。早々にクラブ活動を切り上げて自宅近くの病院を訪れた。対応した医師は無表情で大きな病院の紹介状を書いてくれた。精密検査を受けるまではっきりしたことはわからないと口頭で付け加えた。

 得体の知れない不安を抱え、紹介された病院で一週間の検査入院となった。同行した母は急いで必要な物を自宅に取りに帰る。私は即日、大部屋に入れられた。

 翌日から検査を次々と受ける。採血や心電図は定番に思えた。心エコーは初めての体験だった。心臓の状態をリアルタイムで画面に映し出す。ホルター心電図は身体に装着して、丸一日、心臓の状態を調べるという。

 カテーテル検査は名ばかりで手術のように思えた。脚の付け根を穿うがち、動脈に柔らかい管を差し込む。心臓近くまで入れて造影剤を投与。血管の状態を調べた。検査の時間は短かったが痛みは長く続いた。

 病室に戻ると穴を塞ぐ為、脚の付け根に重みのある砂袋を載せた。止血の役割を果たすと頭で理解していても身体が僅かに動く。赤いおねしょをした状態で、ようやく血が止まった。

 私は検査の過程ではっきりと自覚した。心臓に問題があるのだろう。アスリートに不整脈が多いと記事で読んだ記憶がある。過去の運動量を振り返れば自分が該当してもおかしくはない。スポーツ心臓は病気と見なされていない為、過度な心配は取り越し苦労に終わる。不安から逃れたい一心で心許こころもとない知識に縋った。

 入院して一週間、担当医師に病名を告げられた。洞不全症候群で深夜の脈拍は三十台と極端に少ない。就寝中の突然死も考えられるとはっきり言われ、ペースメーカー植え込み手術を提案された。

 突き付けられた現実に私は呆けた。隣にいた母は毅然とした態度で固まる。その状態で手術の説明を聞いた。

 動きの鈍い心臓を補助する機械は右胸に植え込む。電池式の為、七年くらいを目途に電池交換をする必要がある。最初の手術時間は少し長くて二時間程度。交換時は短く、身体に掛かる負担は少ない。

 喋り慣れているのか。温和な顔ですらすらと語った。

 私は今までにない衝撃を受けていた。自身の心臓の状態に驚いたのは最初だけで、確実に訪れる未来に身がすくむ。


 七年で電池交換。十六歳の自分はあと、何回、手術を受ければいいのだろう。


 その後の細々とした話は、ほとんど頭に入らなかった。

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