第3話・ね、首輪でも付けておこっか?

「……そろそろ教室戻らない?」

「そうだね、遅刻しちゃうもんね」

 予鈴が鳴った。あと五分でホームルームが始まる。いつまでもくっついているわけにはいかない。だのに夜鶴が私をホールドする力は、相変わらず強くて、振りほどこうにも目処が立たない。

「わかってるなら夜鶴、さっさと離すんだ」

「先にみゃーちゃんが離して?」

 一応私も手は回したままだけれど、言うほどの力は込めていない。単なる根比べ。『最初に嫌だと意思表示した方が、フッた側になる』という暗黙の了解が、互いに解放することを許さない。

「……あのな、こんな事でやり合っててもしょうがないだろう」

「だから離したいんだったらみゃーちゃんから離せばいいでしょ? 私は一生、このままでも構わないよ」

 うぐ……強い……。夜鶴がこういう、落ち着いた声を発する時はだいたい異常に固い決意を込めている。仕方ない、少し歩み寄るか。

「わかった。それは私も一緒だけど(嘘だけど)、このままじゃ遅刻どころか家に帰れないしトイレもお風呂も入れない。せーので離す。それでいいね?」

「……はぁ、仕方ないなぁ」

『今回は折れてやりますよ~』的な声音に屈辱は覚えるが、交渉は成立した。今はそれ以上を望まない。

「「せーのっ」」

「「…………」」

 わかっていた。互いに回した腕の筋肉はビタイチ動いていない。視線はこんなにもいがみ合っているのに体温と汗ばかりが混ざり合っていく。

「………………」

 このままじゃ本当に遅刻する。私はまぁ、いい。どうせクラスに馴染めていないし、教師から良いも悪いも印象など持たれていないだろう。けれど、夜鶴はようやく友達と呼べる存在がちらほら出来てきて、教師からの眼差しも信頼に満ちていて、モデルとして駆け出して……つまり、社会通念に反させるわけにはいかない。

「ゆっくり、ほら、夜鶴」

「……みゃーちゃん……」

 夜鶴の服からほんの僅かに手のひらを浮かせると、呼応するように彼女からの圧力が薄まっていく。

「ゆっくり……ゆっくり……」

 じわじわと。同じ速度で離れていく二つの肉体。生まれた隙間に流れる風はひどく冷たく感じる。

「はい、おしまい。戻るよ」

「……うん」

 早歩きで階段を駆け下りる私の、すぐ後ろを夜鶴は付いてくる。その足音は、なんだかとても懐かしかった。


×


「やぁやぁやぁやぁはじめまして! キミが逢妻さんの彼女さん? いやぁすごいねぇまったくビッくらポンだよ心底!」

「……ぁ……ぁ、え?」

 教室に戻る途中、予鈴の影響で閑散とした廊下にて、巨大なカメラを首から下げた女生徒に絡まれた。

「岩槻 宮子ちゃんだよね、いやぁノーマークだった。ふむふむ。前髪長いねぇ、猫背だねぇ、背ぇ低いねぇ、声小さいねぇ、視線合わせてくれないねぇ、でも、うん、素材はいい」

「だ、誰……?」

 というかなんかめちゃくちゃ失礼なこと一息で散々言ってなかったか……?

「おっと失礼。私は七岡ななおか。写真部兼新聞部兼文芸部兼美術部の七岡 未礼みれい。座右の銘は【見方と言葉、報道の全部】。逢妻さんという素晴らしい逸材とせっかく同じ学校、同じ学年になったからにはスキャンダルを素っ破抜きまくってやろうと思っていた矢先にこれだ……ジャーナリスト殺しにも程があるねぇキミは」

 長ったらしい文言、ほとんどが右から左へ流れていったが、こいつがヤバいやつだというのは重々理解できた。

「以後よろしく。逢妻さんのプライベートな情報を存分に垂れ流してくれたまえ!」

「ひぃ!」

 無理やり右腕を奪われ、強引に握手を交わされた。ゴツゴツとした感触はマメだろうか? ペンだこ的な? くそう、絶対やり手だこいつ……!

「ん~見た目だけじゃなくて華奢だねぇキミ。もっと食べないとダメだよ?」

 握手からは解放されたものの、今度は手首を握られたり足腰をマジマジと見られたり……勘弁してくれ……!

「ちょっと」

「ん、ああ、逢妻さん。私は七岡、以後お見知り置きを――「離れて」

 七岡のちゃらけた声を、夜鶴の鋭い声が押し潰した。

「今すぐみゃーちゃんから、離れて」

「……ごめんごめん、キミの恋人さんだもんねぇ、いやぁどうにもそうは見えなくて――「金輪際」

 コミュニケーションを図ろうとする七岡を、あからさまに突き放す夜鶴。あ、あんまりにも……あんまりじゃないだろうか? これが真のコミュ強が行き着く先なのだろうか?

「金輪際、みゃーちゃんに近づかないで。あと私の視界にも入らないで」

「ちょ、夜鶴、いくらなんでもそれは言い過ぎ……っ」

 眼球だけ。体は七岡に向いたまま夜鶴の眼球だけが動き私を見据えた。怒り……だけじゃない、強い意志をぶつけられて思わず怯む。

「……嫉妬深い恋人は嫌? みゃーちゃん。なら早くフッてね?」

「は、はぁ? 全然嫌じゃないが? 嫉妬大歓迎だが?」

 嫉妬、してたのか。なんで? そんな要素どこにも……いや、これでも私から別れを切り出させるための演技か?

「「……」」

「ねぇねぇ」

 再び始まった私と夜鶴の睨み合いは、七岡の下卑た声ですぐに終わりを迎える。

「この先、岩槻さんに近づかないし逢妻さんの視界に入らないって誓うからさぁ、一つだけ教えてよぉ」

「なに?」

 無視するよりは答えた方が早いと判断したらしい夜鶴は、嫌悪感たっぷりに聞き返した。

「どっちから告白したの?」

「わた「っ、わ、私! 私からした!」

 想定外の質問だったが、私の脳内コンピューターの演算処理速度は凄まじかった。夜鶴が言い切るよりも早く断言する。

 なぜなら……告白した側がフラれる方が自然だから!

「ふぅん、岩槻さんからなんだぁ~。二人は幼馴染だったんだよね? どうして告白しようと思ったの?」

 こちらを覗き込んでくる七岡の瞳は、真っ黒に澄んでいてカラスを彷彿とさせた。ゴミをついばみ場を散らかす、強引で賢いカラス。

「……別に、す、しゅ、好き、だから。それだけ。それ以上になんかある?」

「……ふへ」

 今まで威圧的なオーラを醸し出していた夜鶴から、腑抜けた声が零れた。一瞬そちらへ視線を向けたあと、すぐ私へと戻して七岡が続ける。

「ふぅ~ん。……もっといろいろ聞きたいけど……逢妻さんに怒られちゃいそうだしやめとこ。じゃあお二人さん、末永くお幸せに~!」

 よし、完璧だ。少し噛んだが完璧にあしらうことができた。私のコミュ力は間違いなく鍛えられている。このままいけば友達の一人や二人……簡単に出来てしまうなぁ!

「ね、みゃーちゃん」

 七岡が去ってから間髪入れずに、ずい、と。夜鶴の影が迫る。反射的に後退りをすると彼女も付いてきて、背中が壁に触れる。文字通り、後がない。

「ああいう人、怖いね」

「? ああ、たしかにああいう、人のプライベートに土足で踏み込んでくる輩は……」

「人の大切な恋人にベタベタ触るような人……本当に怖い」

 その声音と比例するように冷たい夜鶴の右手が、私の首筋に触れ、纏わり付く。

「ね、首輪でも付けておこっか?」

 何を言っているのか、不思議と理解できた。こいつは今、この瞬間、私に物理的な痕を残そうとしている。

「…………好きにしたら?」

 ここで引いたら、負けだ。拒むという選択肢はやはりありえない。多少の苦しさなら堪えてやる。それに——

「……やめとく」

 ——夜鶴が私を本気で苦しめる光景が、想像できなかった。

「そんなことしたら……」

 しかし未だに離れない右手の温度が、心拍数を引き上げていく。

「したら、なに?」

 私の問いを待っていたかのように、夜鶴の指先が私の皮膚に——ほんのコンマ数秒——深く食い込んだ。

「歯止め、効かなくなっちゃうから」

 作り笑顔を浮かべると同時に手を離し、「行こっ」と言って私の前を歩き始めた夜鶴。

 背中から漂う清々しくも妖しげな雰囲気を見送って、私は文字通り固唾を飲んでから、やっとの思いで足を動かした。

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