先輩、    、お姉ちゃん①

 強引さは時に心地よく、時にどうしようもなく私を切なくさせる。

 野坂夏澄。


 彼女は私にとって台風のようであり、同時に柔らかな春風のような存在でもあった。


 初めて出会った日のことは、未だ鮮明に思い出せる。

 一年生の春、したいことも入りたい部活もなかった私は、ただなんとなく自分にもできそうで、あまり厳しくなさそうな手芸部を選んだ。


 部室は授業で使われていない小さな物置みたいな部屋で、でも妙に清潔だった。


 扉を開けた瞬間に香ってきたのは、どこか懐かしいような匂いだった。その匂いを辿ったら、人が見える。


 開いた窓から流れる風で揺れるポニーテール。

 子供を見るような優しい表情で編み物をするその指先は繊細で、派手さはないのに吸い込まれそうになった。


「來羽? 部室に来るなんて、珍し……」


 その人は顔を上げて、私の方を見た。

 不思議な瞳だった。


 無垢な子供のようでありながら、鏡で見る自分の瞳にも似ているような、そんな奇妙な瞳。

 目を合わせると、世界の色が変わるような感じがする。


「あれ。もしかして、新入部員の子?」

「……はい」

「わ、初めて見る子だ。体験入部には来てなかったよね? お名前は?」


 彼女は近くの棚をごそごそ漁りながら、私に尋ねる。

 なんというか、忙しい人だ。


「大湊天乃です。苗字で呼ばれるのは好きじゃないので、名前で呼んでください」

「うん、わかった。私は野坂夏澄。私のことも名前で呼んでいいよ。よろしくね」

「はい。よろしくお願いします」


 野坂先輩はにこりと笑って、私に何かを見せてきた。

 それはうちわだった。


 黒いうちわに、やけにカラフルな字で「入部ありがとう」と書かれている。

 もう一つのうちわには「手振って」と書かれていた。

 ……なんだ、この人。


「あの……?」

「友達に作ってもらったんだ。新入生の子と仲良くしようと思って」

「そ、そうですか」


 優しげに笑いながら、野坂先輩はうちわを振る。

 絶対変な人だ。


 初対面の人ともそれなりにうまくやっていく自信はあるけれど、この人とはうまくやっていけそうにない。

 うちわから送られてくる風を受けて、私はそう確信した。





「たい焼きって、食べる時ちょっとかわいそうになるよね」

「は?」

「だって、こんなに可愛いのに」

「でも食べるんですよね」

「それはまあね。たい焼きは食べられるために生まれてきたんだし、食べないとかわいそうだよ」

「……どっちにしたってかわいそうなんじゃないですか」


 春が過ぎ、夏が過ぎ、秋が深まり。

 私はまだ、野坂先輩と一緒にいた。


 部活に入ったからには真面目に活動するつもりではあった。でも、来ている人が野坂先輩しかいないのだから、彼女とうまくやっていけないなら部室に行かなければいいだけなのだ。


 なのに私は、昨日も今日も部室に行って、野坂先輩と同じ時間を過ごしている。


 わからない。

 野坂先輩は別に、飛び抜けていい人というわけではない。


 強引に私を外に連れ出すくせに、私のことを深く知ろうとしない。言うことはいつも適当で、掴みどころがない。


 端的に言えば、変な人。

 そんな彼女と一緒にいる私も、大概かもしれないけれど。


「どうせかわいそうなら食べた方がいいよね、うん。天乃はたい焼き、好き?」

「普通くらいです。……で、どうして私たちはこんなところでたい焼きなんて食べてるんですか」

「寒いから」

「……」

「今日は寒いから、天乃と一緒にあったまろうと思って」

「いや、寒い日に公園なんて来たらもっと寒いじゃないですか。部室にいましょうよ」

「でも、こっちの方が思い出に残るよ」

「思い出を作りたいんですか、あったまりたいんですか」

「どっちも。一挙両両得だね」

「寒いですし、思い出にもなりませんし。ゼロ得です」


 私は小さくため息をつきながら、たい焼きを齧った。

 まだ買ったばかりだから熱くて、舌を少し火傷する。思わず舌を出すと、先輩が微笑んだ。


 この人の微笑みは、いつも私を妙な気分にさせる。

 温かいような、苦しいような。


 なんなんだろう。

 私も、先輩も。

 理解するには何もかもが遠すぎる。


「そもそも、どうして思い出なんて作ろうとするんですか」

「ん? だって、せっかく二人で部活してるんだし。後で思い出した時にあったかい気持ちになれるような思い出が作りたいって思うのは自然じゃない?」

「じゃないです」


 いつからだろう。

 こんなにも先輩に気安く接するようになったのは。


 最初はただ、この先輩の笑顔を崩したいだけだった。いつも幸せそうに笑っているのが嫌で、ちょっとくらい変わった顔を見せてほしいと思っただけなのだ。


 そうして過ごすうちに、私は自分の存在意義を見失うようになった。いつだって同じ表情を先輩が浮かべ続けるのなら、私が存在する意味はなんだろう。


 私がいてもいなくても変わらないなら、どうして私はここにいるんだろう。


 そんなことを思う度に、否応無しに気付かされる。

 私はいつも、先輩のことで頭がいっぱいなのだと。


「私は天乃ともっと楽しい思い出を作りたい」

「私は別に、どうでもいいです」

「うん。……ありがとう」


 そのありがとうは、きっと先輩に私が付き合ってあげていることに対するものなのだろう。


 先輩も、私が心から彼女との時間を嫌がっているわけではないとわかっているのだ。


 わかっていて、主語を無くしたお礼を言って。

 言わなくてもわかってしまうところが嫌で、だけど心地良くて。

 無数の言葉は時に無力だ。


 寡黙が何よりも雄弁に人の思いを語ってくれることもある。けれどそれは多くの人にとって、理解し難いことなのだと思う。


 先輩は、きっと私と同じなのだ。

 言葉からじゃなくて、雰囲気から、どうしようもなく漏れ出る態度から、感情から。人のことを読み取る。


 読み取ったものをひけらかさず、ただ静かに二人で過ごすために活用する。

 そういうところが……嫌いじゃない。


「……お礼を言われるようなことは、してないです」

「そうかもね。してないことが、してくれたってことだから」

「うるさいです。さっさとたい焼き、食べてください。無駄に四個も買ったんだから、早く食べないと冷めちゃいます」

「うん。あ、二個目クリームと栗あん、どっちがいい?」


 先輩は袋をごそごそしながら聞いてくる。


「どっちでもいいです。先輩はどっちが好きなんですか」

「私はクリーム。なんかふわっとしてて美味しいから」


 やっぱり先輩は、適当だ。


「ふわっと……? じゃあ、食べればいいじゃないですか」

「そうだね。せっかくだし半分こする? クリームも食べてほしい」

「最初からそのつもりなら、どっちがいいとか聞かないでください。……勝手にすればいいです」

「わかった」


 しばらくすると彼女は、半分に割ったクリームのたい焼きを私に差し出してくる。

 それを受け取ると、当たり前だけど少し手が温かくなった。


 目まぐるしく変わる騒々しい現実と反比例するように、彼女との時間はゆっくりしていて、静かだった。


 私たちは互いのことをよく知らないし、踏み込まない。

 でも一歩下がって互いを見ることで、私たちはかえって互いのことを深く理解し、寄り添うことができている。そんな気がする。


 互いについて語るのではなく、それぞれの目で互いのことを理解する。

 そうした理解が私たちを結ぶ一本の糸になっている。


 私たちはきっと、これから先どう現実が変わっても、今みたいな距離感でふわっと過ごすのだろう。

 この時の私は、そう信じていた。





 現実はいつだって私たちに牙を剥く。

 お父さんが再婚して、私と先輩はそれに巻き込まれるまま家族になった。


 私の家で初めて先輩を見た時、奪われた、と思った。

 何がって、自分でもわからない。

 でも、その時から私たちの時間と距離は崩壊した。


「今日からよろしくね、天乃」


 そう言って手を差し出してきた先輩の笑顔は、いつもと全く変わっていなかった。


 私のお父さんと彼女のお母さんが結婚して、私たちが同じ屋根の下で暮らすようになって、三ヶ月以上が経った。


 先輩は私と家族になれたことを純粋に喜び、本当の姉妹になりたいと言ってきた。


 違和感はあったものの、先輩と前より仲良くなれるのならそれもいいのかもしれないと、私も思っていた。


 そう、嫌じゃない。

 彼女と姉妹になるのは、決して嫌じゃない。


 むしろ歓迎すべきだと思う。これからも一緒に仲良く生きられるなら、それでいい。


 いいはずなのに、なんで。

 どうして胸が痛いんだろう。

 最近は、いつもそうだ。


「先輩。……お姉ちゃん」


 自分の部屋で、彼女の呼び方を考える。どっちもしっくりこなかった。

 先輩とお姉ちゃんの間に、もっとふさわしい呼び方があるような気がするのだ。


「……夏澄。夏澄さん」


 彼女の名前を呟いてみる。

 胸がもっと痛くなる。


 私はずっと前から、自分が彼女に向ける感情に気づいていたのかもしれない。


 こんなにも胸が痛い理由は。彼女の表情が変わらないだけで、自分の存在意義がわからなくなる理由は。

 一つしかないのに。


「夏澄さん。……夏澄さん。夏澄さん。夏澄さん」


 名前を呼ぶと、心臓がぎゅっとする。

 彼女の表情を変えたくても、彼女のことが嫌いだとは言えなかった。


 姉妹になってもいいと思っていたはずなのに、姉妹らしく接することに違和感がある。


「……ああ」


 そうか、と思う。

 彼女と家族になったあの日、奪われたのは。

 きっと、私たちが築いてきたもの全部だ。


 大人の都合で、私たちの時間は、関係は変わってしまった。そして、何より。


 私たちはもう、私たちだけで関係を築くことができない。義理の姉妹という不純物が混ぜられて、私たちは濁ってしまった。

 彼女と家族になるのなら、自分からそう言いたかった。


 他の何にも左右されず、私の力で、彼女に家族になってくださいと言いたかった。

 つまり、それは。


「全部、私だけのものになればいいのに」


 そういう独占欲、なんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る