先輩、    、お姉ちゃん②

 最近、夏澄先輩の様子がおかしい。

 妙に挙動不審だし、避けられている気がする。


 彼女の様子がおかしくなったのは、前に赤本先輩と遊びに行った日からだ。あの日何があったのか聞きたいけれど、聞いても答えないだろうとは思う。


 先輩はそういう人だ。

 私たちはそういう距離感で、そういう関係だったはず。

 でも、姉妹なら?


 お姉ちゃんだったら、どんな答えを私に返してくれるのだろう。

 お姉ちゃんと、先輩。


 同じ人なのに、立場や関係性が違うだけで見えてくるものが違う気がする。私はこの数ヶ月で、夏澄先輩のことを前よりも深く知った。


 でもその先に、何があるんだろう。

 私たちは勝手に家族にされた。


 もう私から彼女に、家族になってくださいと言うことはできない。

 だって私たちはすでに家族なのだ。


 心から家族と思ってくださいなんて言うのは、違う。そういうのは私が言葉にするべきことじゃない。


「……あれ」


 なんとなく部屋の窓を見ていると、先輩が外に出ているのが見えた。

 妙に大きいリュックを背負った先輩は、せっせと足を動かしている。


 月末の日曜日。先輩は必ずあのリュックを背負ってどこかに行く。今まで私はそれをただ見送ってきた。


 でも、今日はなぜだか彼女のことを追いたくなった。

 着替えはもう済ませているから、すぐに家を飛び出す。


 彼女は割と人の気配には鈍感だから、少し離れていれば気づかれることはない。


 今までだって、学校で後ろから彼女を見ていても、気づかれたことはないのだから。


 街を歩いて、駅の改札を通って、何度か乗り換えをして。

 一時間ほどかかって辿り着いたのは、知らない街だった。

 駅からしばらく歩くと、先輩は誰かの家の前でチャイムを押していた。


 誰の家なんだろう。もしかして恋人、とか。でもそんな色っぽい感じじゃない。先輩の顔は少し緊張している。

 先輩が家の中に入っていくのを見送ってから、表札を見てみる。


「野坂……?」


 そこには野坂と書かれている。

 つまり、ここは。


「先輩のお父さんの家……」


 夏澄先輩と、彼女の母親の苗字は違う。

 前にお父さんがお義母さんの苗字を呼んでいるのを聞いたことがあるけれど、野坂ではなかった。


 苗字が違う理由を、私は知らない。

 知りたいと思ったことはあるけれど、無理に先輩に聞くのも違う。

 私は小さく息を吐いた。


 何してるんだろう、私。

 こんなところまで追ってきたって、どうにもならないのに。


 冷たい表札にそっと触れてみる。

 表札は表札に過ぎないから、特に何も起こらない。

 だけどその時、ぴんぽんと軽い音がした。


「え?」


 表札に触れるうちに、間違えてチャイムを押してしまっていたらしい。

 私は慌ててその場を離れようとしたけれど、扉が開いてしまって、動けなくなった。


「……天乃?」

「せん、ぱい」


 扉の向こうから姿を現したのは、やっぱり先輩だった。

 私は息が詰まるのを感じた。


「……んー。とりあえず、入って」

「は、はい」


 先輩に手招きされるままに、家に入る。

 先輩の部屋とはまた違った匂いがした。

 私は靴を脱いで、先輩の靴の横に揃えた。


「寒かったでしょ。手、冷たくなってる」


 私の手を引きながら、先輩は言う。

 お姉ちゃんとしての先輩の顔。


 私はいつからか、それが好きじゃなくなった。

 最初の頃は、こういう関係も悪くないと思っていたはずなのに。


 一緒に過ごせば過ごすほど、この関係に違和感しか持てなくなっていった。


「私のこと、心配して来てくれたの?」

「……たまたまです」

「そっか」


 無理のある言い訳をしても、彼女はそれについて言及してこない。ただぎゅっと私の手を握って、歩いていた。


 いつも通りの先輩だ。

 胸が痛くなるくらいに。


 手を引かれて歩くと、広いリビングに着く。食卓と思しきテーブルには何脚か椅子が置かれていて、そのうちの一つに男の人が座っていた。


「こんにちは」


 とその人はのんびりした様子で言った。

 この人は先輩のお父さんなんだと、それだけでわかった。


「こ、こんにちは」

「この子が天乃。私の後輩」

「ああ、この子が……。いつも、夏澄がお世話になっているみたいで」


 少しくたびれた感じの見た目をしているけれど、柔らかな目元は先輩にそっくりだ。先輩のお父さん……野坂さんはうっすらと笑って私を見ている。

 私は彼に笑い返した。


「いえ、私の方こそ先輩にはお世話になっています」

「……ふふ、そうなんだ」

「とりあえず私、お昼の準備するね。天乃もせっかくだから、食べてってよ」

「……はい」


 そうか、と思う。

 先輩が料理をするきっかけになったのは、この人なのだ。


 確かにあまり健康そうには見えない。髪はパサついているし、肌もケアしていないのか、乾燥している。


 この人に健康になってほしいから、先輩は若者向けでない料理を作っている。


 そう考えると少し、心が重くなった。

 とっくの昔に家族じゃなくなっている人のために、なぜ先輩は料理なんて作りに来ているのだろう。

 家族なんて、素晴らしいものでもなんでもないのに。


「夏澄から話は聞いてるよ。可愛い後輩だって」


 野坂さんは言う。


「先輩が、そんなこと言ってるんですか」

「うん。いつも楽しそうに、君のことを話してくれる」


 水が流れる音が聞こえる。

 少し経ってから、まな板に包丁が当たる音が聞こえて、換気扇が回り始めた。


 視線をずらすと、先輩の姿が見える。

 先輩はいつも通り、楽しそうな顔をしている。


「好きなところに座って」

「は、はい」


 向かい合って座るのもおかしいと思い、野坂さんの斜め前に座る。先輩の姿が見えなくなると、途端に緊張感が漂った。


「ありがとう」

「え?」

「君の話をするようになってから、夏澄は少し明るくなった。よほど楽しいんだと思う。だから、ありがとう」

「そ、そんなことないです。先輩はずっと前から明るくて、楽しそうで。その、私なんて何も……」


 私たちは曖昧だ。

 私が先輩に与えられるものも、先輩が私に与えてくれたものも、よくわからない。きっとそれは目に見えるものじゃなくて、即効性もないものなのだ。


 だから彼女と出会って私がどう変わったのかはわからないし、彼女が変わったのかどうかもわからない。


 ただ一つ確かなのは、私たちは少なからず互いのことを思っているということだ。


「そんなことはないと思う。君を見ている時の夏澄は、とても楽しそうな顔をしているよ」

「……そう、なんですか」


 先輩はいつも同じ笑顔を浮かべている。

 私がいても、いなくても。


 赤本先輩に向ける笑顔も、私に向ける笑顔も同じだ。きっと私がいなくなっても、先輩はいつも通り笑っているのだと思う。


 それが嫌で、私は彼女の余裕を崩そうと必死になってきた。

 余裕のない彼女の顔は、何よりも綺麗だ。私にしか向けないであろうその表情が、千金より価値ある宝に見える。

 そう思ってしまう私は多分、どうかしているんだろう。


「これからも夏澄と仲良くしてくれると、嬉しい」

「……はい」


 それっきり話すことがなくなって、私たちは先輩の料理が運ばれてくるまで無言のまま過ごした。


 戻って来た先輩の顔を見たけれど、やっぱりそれはいつも通りの笑顔にしか見えなくて、私はもっと胸が痛くなるのを感じた。


 本当に私を見ている時に先輩が楽しそうな顔をしているのなら。

 それは一目見てわかる変化であるはずだ。


 でも私には、それがわからない。

 もしかすると私は、先輩のことをちゃんと見ることができていないのだろうか。


 ……そんなこと。

 ある、かもしれないけれど。

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