第23話

 光陰矢のごとしという言葉があるけれど、月日が経つのは矢よりもっと速い気がする。


 いつの間にか夏休みも終わり、今日から学校だった。

 夏休みの間、私たちはそれなりに姉妹らしく過ごしていた。ハグしたり、手を繋いで歩いたり、たまに私の部屋で一緒に寝たり。


 でもそれは私たちの心の距離を近づけるのには十分ではなかったらしく、結局夏休み前となんら変わっていないようにも思う。


 朝起きて、少し気まずい朝食を家族と一緒に済ませて、二人で学校に行く。


 いつもの流れだ。

 天乃を退屈させないように、私は結構積極的に動いている。

 けれど、それは空回っているのかもしれないとも思う。


 天乃と一緒にいる時の私は余裕を失っていて、普段はできるようなことができなくなることがある。


 人と仲良くするのは得意なはずなのに、天乃の心に近づけないのは、そのためなのかもしれない。


「夏、終わっちゃいましたね」


 放課後。

 私たちは去年の今頃と変わらず、二人きりの部室で各々の作業をしていた。

 天乃は刺繍をしていて、私はぬいぐるみを作っていた。


「うん。でも今年の夏は、楽しかった」

「そうですか。私はそこそこでした」

「そっか。そこそこなら、よかった」

「よくないです。お姉ちゃんなら、ちゃんと楽しませてください」


 投げやりにそう言って、天乃は静かに手を動かす。

 十二月には天乃の誕生日があるのだが、私は先月からずっと天乃へのプレゼントをどうするか決めかねていた。


 私の感情を伝えられるプレゼントがいいのだが、でも今の感情を伝えてどうするんだろうと思う。


 今の私は何かがぶれているような気がする。

 しかも、感情を伝えるプレゼントって、なんなんだろう。どんなもの?


 手作りのチョコ、とか。

 それはバレンタインだ。


「痛っ……」


 考えながら縫っていたせいか、針で人差し指の先を刺してしまった。

 私は一旦ぬいぐるみを置いて、人差し指を見た。


 玉のようになった血は、今にも流れ落ちそうになっている。

 バッグからティッシュを出さないと。


 そう思っていると、横からぬっと手が伸びてきて、私の手を掴む。

 あっと思った時には、人差し指をくわえられていた。


「天乃、ちょっと待って」


 待ってと言われて待つ天乃ではない。

 彼女は私の言葉などお構いなしに、人差し指をゆっくりと舐めていた。


 飴玉を転がすように指を舐められていると、変な気分になる。

 流石に人に指を舐められたことはない。


 でも姉妹ならこれくらいのことはするのかもしれない。

 そう思っても、心臓の鼓動が速くなってどうしようもない。

 どうして最近の私は、こうなんだろう。


「くすぐったいよ、天乃」

「もっとくすぐったがっていいですよ、先輩。先輩はずっと、そういう顔でいてください」


 天乃は一度私の指から口を離す。

 唾液で濡れた人差し指が、日の光に照らされて妙な輝き方をしている。

 ぐらり、と心が揺れる音が聞こえた気がした。


「……天乃はどうしてそんなに、私の変な顔が見たいの?」

「いつもいつも余裕な顔をしている先輩が、ムカつくからです」


 いつも通りの天乃だ。

 天乃はそれだけ言うと、私の指を丁寧に舐めていく。


 五分ほど経った頃、天乃はようやく満足したのか、私の指を解放した。

 少しふやけた指の先には、まだ微かに血が滲んでいる。


「先輩の血は、美味しくないです」

「美味しい血、舐めたことあるの?」

「あるわけないじゃないですか。キモいこと言わないでください」

「えー……」


 私はティッシュで彼女の唾液を拭ってから、バッグに入れていた消毒液をかけて、絆創膏を貼った。


「……先輩は、姉妹として私が求めることならなんでもしていいって、前に言いましたよね」


 不意に、天乃が言う。


「うん、そうだね」

「じゃあ、ここで上、脱いでくれませんか?」


 彼女はにこりと笑った。

 でもその目は全く笑っていないように見える。


 一緒に暮らすようになってから私は余裕をなくしている。だけどそれは私だけじゃなくて、天乃も同じだと思う。


 ただの仲のいい後輩だった頃の天乃と、今の天乃は違う。

 けれど、いつの間にか。


 こういう押しが強い天乃のことを、いつもの天乃と思うようになっている自分がいる。それがいいことなのか、悪いことなのかはわからないけれど。


「……なんで?」

「お姉ちゃんがまたダサい下着をつけていないか、チェックします」

「それ、妹のすることなのかな」

「私がそうだと言えば、させてくれるんでしょう?」

「それは、そうかもだけど」

「だったらその質問に意味なんてないですよ。私はただ、妹としてお姉ちゃんとしたいことをしようとしているだけですから」


 天乃は淡々と言って、私に手を伸ばしてくる。

 指を舐められるくらいなら部室でしてもいいと思うけれど、上を脱ぐのは流石にどうなんだろう。


 それがもし姉妹らしい行為なのだとしても、部室でやるのは変態的な気がする。


 でも姉妹として天乃が求めることがあるのなら、それをしたいと思っているも確かだ。前言を撤回するほど、あの頃の私と今の私が乖離しているわけではない。


 しかし。

 これは私が望んでいた姉妹の形とは、違う気がする。


 そもそも私は一人っ子だから、どういう行為が姉妹らしいのかもよくわかっていない。目指していたのは姉妹として天乃と仲良くすることだけど、それもいまいち具体的じゃない。


 別に姉妹じゃなくてもいいんじゃないかと言われると、その通りなのかもしれない。


 けれど、私たちは姉妹として縁を結ばれて、今ここにいる。

 なら。

 ……いや。


 私は形に囚われすぎているんだろうか。家族という関係を大事にしすぎるあまり、本質を見失っているのかもしれない。


「先輩。いいですよね?」


 お姉ちゃんって、呼ばないんだ。

 ああ、でも。


 ここで天乃に身を委ねれば、彼女の心がもっとよくわかるようになるかもしれない。自分じゃわからないような表情を彼女に見せれば、もっと私のことを理解してくれるかもしれない。

 そう思って、目を瞑る。


「夏澄、いるー?」


 その時、扉が開かれた。

 目を開けると、私と距離を離した天乃の姿が見える。

 扉の向こうから姿を現したのは、來羽だった。私は慌てて立ち上がった。


「どうしたの、來羽」

「ん? せっかくだし、久しぶりに一緒に帰ろうかと思って」

「私、見ての通り部活の最中なんだけど」

「いや、なんもしてないじゃん。皆この時期には普通引退してるんだし、たまには部活休んだりすればいいのに」

「そうかもだけど」

「でしょ? 今日は部活終わりにして、帰ろうよ。天乃ちゃんも、一緒にどっか遊び行こう」

「……私は」


 天乃は私の方をちらと見てから、小さくかぶりを振った。


「今日は、やめておきます」

「じゃあ、私も」

「野坂先輩は行ってください。せっかく赤本先輩が来てくれたんですから」


 その声はいつもよりも刺々しい。

 天乃には來羽と仲良くする気があまりないらしい。けれど、ここまでわかりやすく機嫌が悪そうなのは、珍しい。來羽の前なのに。

 來羽は天乃に笑いかけてから、私の手を引いた。


「よし。じゃ悪いけど、夏澄のこと借りるね。また今度、天乃ちゃん」

「はい」


 私を置いて話が進む。

 これはもう行かないと駄目なパターンだと思い、私はバッグを肩にかけた。


 後ろ髪を引かれる思いで天乃の方を見るけれど、彼女は私に一瞥もくれない。


 來羽が部室に来た時は、天乃が昔に戻ってしまう。私はそれを嫌だと思っている。この感情に名前はつけたくなかった。


 つけたくないけれど、でも。

 あえてつけるなら、この感情は。

 独占欲、と呼ぶべきものなのかもしれない。


「今日はいきなりだね、來羽」


 部室を出てもなお、彼女は私の手を引いていた。


「まあね。とりあえず、私に付き合ってよ」

「……いいよ」


 私はこの一年で天乃との間に築いた気安さを大事にしている。

 私だけに見せる愛想の悪さが、感情のうねりが、どうしようもなく心地いいのだ。


 それをいつも感じていたいと思っている。

 だから。


 來羽がいると途端に、一年間育んだものが見えなくなってしまうから、少し辛い。せっかく友達が来てくれているのに、こういうことを思うのはどうかしているけれど。


 この独占欲は、ただの後輩に感じていいものなんだろうか。

 天乃はどうなんだろう。今日は刺々しい声を出していたけれど、彼女もまた私を独占したいと思っているのだろうか。


 ……ない気がする。

 天乃の本音はどこにあるんだろう。


 私のことを、本当はどう思っているんだろう。

 気になるけれど、聞いてもいいんだろうか。


 それを聞いた後、私たちは今のままでいられるのか。

 渦巻いた感情を胸にしまって、私は來羽と一緒に歩いた。

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