第七話

「はあっ、はあ……」


 息を切らしながら、カトレアは森の中を駆ける。


「はあ……はああ……」


 今、自分がどこにいるのかもわからない。頭の中で地図を組み立てて、フィテナの住む家の方に逃げるようにはしている。でもこの辺りの道は余り来たことがないから、正しい方向に進めているのかには不安があった。


 疲れて足が動かなくなりそうになったら、呪文を唱える。


いた白猫、錆びた肉体、柔い救い――〉


 肉体の疲労を癒やす〈魔術ウィフト〉によって、カトレアはどうにか走り続けることができていた。


 ようやく、見知った道に出ることに成功した。ちらりと後ろを見る。シレルの姿はなくて、そのことに安堵しながら、左に曲がろうとしたときだった。


 ――上から、何かが落ちてくる。


「…………っ!」


 カトレアは目を見張った。土煙が舞う。吸い込んでしまって、けほけほと咳を繰り返した。


 ……何かに、締め付けられる感触があった。


 カトレアはようやく、自分の状況を理解する。シレルが、カトレアの身体に巻き付いていた。さっき落ちてきたのは樹の上にいたシレルだと、ようやく理解した。


「また会えましたね、カトレアくん」

「……く、う……」

「傷口がすぐに塞がってしまうのなら――貴方は、絞め殺すことにします。苦しいかもしれませんが、少し我慢してくださいね」


 カトレアは泣き出しそうになりながら、口を開いた。


「…………ナ」

「何ですか?」

「……フィテナ……助けて……」


 フィテナという言葉の響きに、シレルは金色の瞳を見開いた。

 それから、気味の悪い笑みを浮かべる。


「そんな都合よく、助けが来るはずないでしょう?」

「来るもん……! だって、だって……フィテナは、ぼくを……」


 思い出す。


 初めて出会ったとき、ぼろぼろになったカトレアを抱きしめてくれた、フィテナの優しい温度を。ありありと、思い出す――


 カトレアの目から一筋、涙が零れ落ちる。翠色の鱗にぶつかって、弾ける。



 その瞬間、だった。



 シレルの尾部が、ぱきぱきと氷に覆われてゆく。


「何……!?」

 シレルは驚いたような声を出す。


「……あ、」

 カトレアの顔が、微かな安堵によって歪んだ。


 金色の髪と、狐のような耳。

 橙色の双眸は、シレルのことを強く睨み付けていて。


 シレルはそんな彼の姿を見て、諦念の滲んだ声を出す。


「……噂はかねがね聞いてます。貴方が、〈氷塊の魔術師ウィフテリア・オフ・イスィク〉――フィテナ」


 フィテナは何も答えることなく、左手に嵌められた〈指輪リング〉をそっと撫でた。

 口を、開く。


氷嵐イスィリス――〉


 フィテナの言葉と共に、シレルの身体がみるみるうちに氷漬けになっていく。


「ああ……わたくしは、こんなところで……」


 フィテナはそっと、シレルの中に埋もれているカトレアのことを抱きかかえた。カトレアは酷く悲しそうに、シレルの姿を見つめていた。


「ふふ……さようなら、カトレアくん……」


 その言葉を残して、シレルは氷の中に閉じ込められた。


「カトレア」


 名前を呼ばれたから、フィテナの方を見る。


「……目を、閉じていてください」


 カトレアはこくりと頷いて、銀色の双眸をまぶたの奥に隠した。

 フィテナはそっと、口を開く。


氷殺イスィレル――〉


 呪文が、〈魔術〉を呼び起こす。


 シレルを閉じ込めていた氷が、一気に彼女を押し潰す。ばらばらの肉塊と、氷塊と、真っ赤な血が、後に残される。


 フィテナは憐れむような目でその光景を見つめてから、踵を返した。

 暫くの間、二人のことを静寂が包み込んでいた。

 やがて、カトレアが口を開く。


「……どうして、助けに来てくれたの?」

「帰りが遅いので気になって、探していたのです。貴方の香りも、僕は判別できますから」


「そっか、すごいね。……あのさ、フィテナ」

「どうしましたか?」

「……上手くいかない。何だか、生きてても何にも上手くいかない気がして、すごく、嫌になる……」


 カトレアは目を瞑りながら、泣いていた。


「大丈夫です。皆、そうですから。人生は上手くいかないことばかりだけれど、でも生きていれば必ず、幸せなこともあります」

「でもさ……幸せがさあ……全部、音を立てて、壊れていくんだよ……」


「……今は、そう思ってしまうときかもしれませんね。大丈夫ですよ。家に帰って、木苺のジュースを飲んで、温かな布団で眠りましょう」

「……うん。そう、する」


 嗚咽を漏らすカトレアを抱えながら、フィテナはゆっくりと、道を歩いた。


 ――フィテナは、気付いていた。


 今の〈蛮魔レシェン〉の匂いは、幸福そうにしていたカトレアが漂わせていた匂いと、同じであることを。

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