第三話
カトレアは泣きながら、森の中を走っていた。
――どうしてフィテナは、わかってくれないの。
溢れてしまう涙を必死に手で拭いながら、目的地も決めずに進み続ける。
――〈
視界は滲んでいて、ぼんやりとした世界が広がり続けている。
――〈蛮魔〉がいなければ。ぼくのお父さんは、お母さんは、今も、生きていてくれたはずなのに……
途端、カトレアの視界が傾いた。
石につまずいて、彼は転んでしまう。
「……っ!」
咄嗟に両手をついた。鋭い痛みが走って、カトレアは顔を顰める。ゆっくりと手のひらを確認すると、擦れてしまって血が滲んでいた。
「痛い……」
そんな言葉が、口から漏れる。
カトレアは体勢を立て直して、地面に座り込む。ぼうっと、自身の傷口を見つめていた。血はすぐに止まって、既に流れた血だけが皮膚に付着していた。
そのとき、だった。
「……あの、大丈夫ですか?」
声がした。
カトレアは顔を上げた。
そこには、一人の美しい少女が立っていた。心配そうに、カトレアのことを覗き込んでいた。
歳の頃は十六、七くらいだろうか。腰の辺りまで伸ばされた真っ直ぐな黒髪は、カチューシャのような編み込みを伴っている。
左耳の近くには、深緑色のリボンが付けられている。ぱっちりとした瞳は翠色で、とても綺麗だった。品のよさそうな衣服に身を包んでいて、スカートからは華奢な足が覗いていた。
「怪我してるじゃないですか……ちょっと待っていてくださいね」
少女はそう言って、ポケットから一つのハンカチを取り出した。レースのあしらわれた真っ白なそれを、彼女は躊躇なくカトレアの手のひらに添える。
カトレアはようやく、口を開いた。
「……あなたは、誰ですか?」
「ふふ、敬語なんて使わないでいいですよ。わたくしは誰に対してもこうなので、大目に見てほしいんですけど」
「あ……うん、わかった」
「ありがとうございます。わたくしは、シレルという者です。十六歳です」
「シレル、さん」
「ふふ、さんはいらないですよ。貴方のお名前を聞いてもいいですか?」
「……カトレア。十三歳」
「へえ、カトレアくんと言うんですか。よろしくお願いしますね」
少女――シレルはそう言って、柔らかく微笑んだ。
「……うん、よろしく、シレル」
カトレアはぼそぼそと言いながら、淡く笑った。
「血、止まりましたかね」
シレルはそう言って、カトレアの手からハンカチを離す。あったはずの傷口はもう塞がっていて、桃色の皮膚になっていた。シレルは驚いたように、目を見張った。
「治り、早いですね」
「……そうなんだよね。ありがとう、シレル」
カトレアは、自分の手のひらを見つめた。血は殆ど拭き取られていて、雪のような白さをした肌が広がっていた。
カトレアはようやく立ち上がり、衣服に付いた泥を手で払う。
シレルは微かに首を傾げながら、桜色の唇を開いた。
「ところでカトレアくんは、どうしてこんなところにいたんですか? 町に向かっていたんですか?」
「あ……そうだよね。ここから町、近いよね。……ぼくはちょっと、走ってただけ」
「そうなんですね。わたくしは町に住んでいて、何となく散歩に来たんです。そしたら、座り込んでいるカトレアくんがいたから、すごくびっくりしました」
「えっと、驚かせちゃってごめん」
「ふふ、別に謝らなくていいですよ」
シレルは微笑んで、カトレアの銀色の髪を撫でた。カトレアはくすぐったそうに、微かに目を細める。
「そういえば、カトレアくん。一つ、頼み事をしてもいいですか?」
「え、いいけど……何?」
「実はわたくし、家族でこの町に越してきたばかりで、友人が殆どいなくて。……だから、もしよければ、わたくしと友人になってくれませんか?」
友人。
その響きを、カトレアは頭の中で繰り返した。
カトレアにも、友人と呼べる存在はいなかった。かつて暮らしていた町にはいたけれど、皆あの日に、命を落としてしまったから。
カトレアはシレルを見据えて、それからしっかりと頷いた。
「ぼくでよければ、ぜひ!」
そんな彼の姿に、シレルは本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ありがとうございます。よろしくお願いしますね、カトレアくん」
シレルはそう言って、右手を差し出した。カトレアははにかみながら、シレルの手を取った。
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