第二話
カトレアが〈
本当は一日中勉強していたいのだけれど、フィテナから止められている。〈魔術〉の実践は、まだ若いカトレアには負担が大きいから、意図的にセーブされていた。
家の前に並んでいる花壇の花々に、カトレアはじょうろで丁寧に水をやる。筒部から出てくる透明な水を、彼はぼうっと眺めていた。
「やっほー、カトレアくん」
後ろから声を掛けられ、カトレアは振り向いた。
そこには、一人の青年が立っていた。歳の頃は二十、一くらいに見える。手入れの行き届いた赤茶色の髪と、どこか楽しげな色をたたえた碧色の瞳。
耳にはじゃらじゃらと銀色のピアスが付けられている。口角はつり上がっていて、どこか三日月の形に似た口元をしていた。
「……こんにちは、ネゼレさん」
カトレアは微かな緊張を孕んだ声で、そう言った。青年――ネゼレは、口元に手を当てて大きく欠伸をする。
「いやあ、マジでつっかれたあ。今日も徹夜明け、ダルすぎ」
「〈
「いやーもうめっちゃ大変だよ? こんだけ〈
ネゼレは、わざとらしく溜め息をついてみせる。それからまた、口を開いた。
「そもそも〈蛮魔〉ってさ、ちゃんとした〈魔術師〉から見ればそんなに強くない奴が多いんだけど、強い奴はマジで強いからね。ほんと、何度死にかけたことか」
そう告げて笑うネゼレの鎖骨の辺りには、大きな線が走っている。それが〈蛮魔〉との戦いによってもたらされた傷の跡であることを、カトレアも察していた。
知性を持つ魔獣である〈蛮魔〉はこの世界に遍在していて、〈魔術〉をもってかれらに対抗する者たちを、人々は〈魔術師〉と呼んだ。今カトレアの目の前に立っているネゼレ、そして家の中にいるフィテナは、〈魔術師〉だった。
ネゼレは軽く首を傾げながら、口を開く。
「そういえばカトレアくんも、〈魔術師〉になりたいんだっけ?」
その問いに、カトレアはゆっくりと首肯した。
「まあそうだよね、でなきゃフィテナに弟子入りしないもんねえ。でもさあ、何でわざわざ? 世の中にはもっと楽な仕事がいっぱいあるし、それに〈蛮魔〉の脅威はよくわかってるでしょ? ……キミの境遇ならさ」
ネゼレの言葉に、カトレアは淡く目を細めた。少し沈黙した後で、ゆっくりと口を開く。
「……だからこそ、です」
「ふうん、なるほど。まあ、オレは別に止めないけどね」
そう言って、ネゼレはくすくすと笑う。そんな彼の右手の全ての指、そして左手の人差し指に嵌められた〈
「そういえば、何の用事でいらっしゃったんですか?」
「ん、ああ、フィテナに伝えなきゃいけないことがあって。最近オレたちの組織が追ってる〈蛮魔〉についてのこと。キミも気を付けなよ、なんか若い子が狙われやすいらしいし」
ネゼレが言い終えたのとほぼ同時に、家の扉が開いてフィテナが姿を現す。
「こわあ、呼び鈴鳴らしてないのに来たよ」
「貴方の匂いはわかりやすいのですよ。香水を付けているでしょう?」
「さっすが、相変わらずの地獄耳ならぬ地獄鼻だねえ。その調子で〈蛮魔〉と人間も嗅ぎ分けてほしいんだけど」
「以前も話したと思いますが、殆ど同じ匂いなので難しいのですよ。まあそれはいいとして、何のご用事ですか?」
「ああ……」
ネゼレはちらりとカトレアの方を見る。それからフィテナに視線を戻して、笑った。
「家の中で話すよ。オレ、レモンティーが飲みたいなあ」
「いつものことながら、人使いが荒いですね。別にいいですけれど」
「ありがと。そんじゃまたねえ、カトレアくん」
楽しそうに手を振るネゼレに、カトレアはぎこちない笑顔を浮かべて手を振り返した。
二人は家の中に消えていき、扉がばたんと閉まる。カトレアはじょうろの取手をぎゅっと握りながら、ぼそりと呟いた。
「……ぼくだって、」
その言葉は、秋の空気へと溶けていった。
◇
翌日、〈魔術〉の実践練習をするために、カトレアとフィテナはいつもの部屋にいた。
「では、カトレア。今日も、肉体治癒の基礎的な〈魔術〉から……」
「あのさ」
フィテナの言葉を、カトレアは遮った。フィテナは微かに目を見張ってから、「どうかなさいましたか?」と問いかける。
カトレアは俯くのをやめて、真っ直ぐにフィテナを見つめた。
「ぼく……やっぱり、攻撃の〈魔術〉を学びたいよ。お願い、フィテナ、教えて!」
そう言って、カトレアは頭を下げる。
フィテナはそんな彼の姿を、暫しの間見つめていた。それから視線を落として、自身の左手に嵌められた五つの〈指輪〉を、視界に映した。
〈魔術〉を起こすには、三つの要件がある。一つ目は、体内に魔力が残存していること。二つ目は、その〈魔術〉と親和性の高い指に、〈指輪〉が嵌められていること。三つ目は、適切な言葉で呪文を唱えること。
右手の〈指輪〉は、強化、弱化、治癒の〈魔術〉を扱える。左手の〈指輪〉は、攻撃の〈魔術〉を扱える。
フィテナは、カトレアの手を見た。〈指輪〉を付けているのは、右手の薬指と小指だけ。すなわちカトレアは、肉体治癒と精神治癒に関する〈魔術〉のみを使用できた。
フィテナはゆっくりと、口を開く。
「カトレア。貴方はどうして、攻撃の〈魔術〉を使いたいのですか?」
真っ直ぐな橙色の双眸に見据えられて、カトレアは微かに目を見開いた。
問いに対する答えを、心の中で形作る。
すぐに、答えは導かれた。
「……〈蛮魔〉を、殺したいから」
カトレアは自身の手のひらに、爪を食い込ませた。
その返答に、フィテナは目を細める。それからそっと、首を横に振った。
「いいですか、カトレア。そうした殺意に身を任せて生きることは――〈蛮魔〉と、何ら変わりませんよ」
その言葉に、カトレアは傷付いたような表情を浮かべる。
それからフィテナのことを、きっと睨み付けた。
「どうしてそんなこと言うの! ぼくは〈蛮魔〉とは違う! お父さんとお母さんを殺したあんな酷い奴らと、ぼくを一緒にしないでよ!」
「僕も、貴方と〈蛮魔〉を一緒にしたくはありません。でも、そうした動機で〈魔術〉を学ぼうとするのは、とても危ういことだと理解しなさい」
フィテナの厳しい言葉に、カトレアは目に涙をいっぱいに溜める。
「……もう、フィテナなんか知らない!」
カトレアはそう叫んで、部屋の扉を開けて走り去る。
フィテナは椅子から腰を浮かせたが、少し逡巡したあとで、カトレアを追い掛けるのはやめた。
今自分が言葉を掛けることは、カトレアのためにならないと思ったから。
あの子には考える時間が必要だろうと、フィテナはそう思いながら、小さく溜め息をついた。
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