第一話

 穏やかな秋に包まれていた。瑞々しい緑の葉を付けていた樹々は、段々とその色彩を黄や橙に変貌させていた。湖はそんな樹々と空を反射して、吹く風によって美しく水面を揺らがせていた。


 湖畔には、一つの家があった。暖色の屋根と真っ白な壁が美しい家だった。


 窓の向こうには一人の少年がいる。小さな部屋の中で、机の上のノートに向かって筆記具を走らせている。ノートの側には開かれた一冊の本と、山積みにされた幾つもの分厚い本があった。


 歳の頃は十三、四くらいに見える。少し長めの銀色のショートヘアは、部屋の灯りを受けて淡く煌めいている。長い前髪は、幾つかの灰色のピンで留められていた。銀色の瞳は、真剣な光を灯している。


 こんこん、と閉じられていたドアがノックされる。少年は顔を上げて、口を開く。

「どうぞ!」

 その言葉に応えるように、ゆっくりとドアが開かれる。


 そこに立っていたのは、一人の青年だった。

 歳の頃は、二十一、二くらいだろうか。肩上の辺りで切られた金色のストレートヘアが美しい。狐の持つそれに似た耳が、頭の辺りから生えている。

 柔らかな曲線を描く目尻の下で、橙色の瞳が瞬きによって見え隠れしている。首からは、宝石の嵌め込まれたネックレスを提げていた。


 彼は両手でお盆を持っていて、その上には綺麗なグラスが乗せられていた。中に入っている液体は炭酸のようで、ぱちぱちと泡が弾けていた。液面の方は透明だが、底に近付くにつれて、赤紫色に染まっている。


 青年は優しく微笑んで、そっと口を開いた。


「お疲れさまです、カトレア。木苺のソーダを持ってきましたよ」

「え、いいの? やったあ、どうもありがとう」


 銀髪の少年――カトレアは、嬉しそうに顔を綻ばせた。青年はゆっくりとカトレアの元に歩み寄って、机の隅にグラスをことりと置く。入っている氷が、からからと綺麗な音を立てた。


 カトレアはグラスを持って、木苺のソーダにストローで口を付けた。ちょっとだけ飲んで、へらっと笑う。


「おいしい。フィテナ、こういうのつくるの上手だよね」

「褒めて頂けて光栄です。勉強の方は進んでいますか?」

「ばっちり、進んでるよ! 新しい肉体治癒の〈魔術ウィフト〉の呪文、覚えようと思ってさ」

「本当ですか。どれ、見せてください……」


 青年――フィテナは、カトレアの前に広げられているノートを見る。


 ページは真っ黒になっていた。比喩ではなく、本当に殆どが黒色なのだ。びっしりと書いた呪文の上に更に呪文を重ねて書くから、白い部分は大方消えてしまって、もう元の呪文の意味さえ読み取れなくなってしまっていた。


 フィテナはカトレアの目を見る。真っ直ぐな銀色の双眸が、フィテナの姿を反射していた。


「……カトレア。何度も言っていますが、書き取りの際は余り重ねて書くことはせず、次のページに移った方がいいと思います」

「あ……えっと、忘れてた。ごめんなさい、フィテナ」

「別に謝らなくていいですよ。ノートなら幾らでも、買い足すことができますから。だから、ね?」


 諭したフィテナに、カトレアはこくりと頷いた。


 ◇


 カトレアとフィテナは小さな部屋の中で、向かい合って椅子に座っている。

 フィテナは、自身の指の腹を小さな刃物で傷付ける。皮膚が切れて、つうと赤い血が零れ出す。


「……では、やってみてください」


 カトレアは頷いて、自身の右手をフィテナの怪我に近付けた。カトレアの右手の薬指と小指には、鋼色の〈指輪リング〉が付けられている。カトレアはそっと、口を開いた。


〈小鳥のさえずり、赤の傷口、柔い救い――〉


 呪文を唱えると、右手の薬指に嵌められている〈指輪〉が微かに熱を持つ。フィテナの傷口が淡い光の粒に包まれ、破れていた皮膚はすぐに元通りに繋がった。フィテナは安堵したように微笑んで、伝っていた血液を布で拭き取る。


「上手になりましたね、カトレア。流石です」

「……ありがとう」


 感謝を述べたカトレアの目が、少し下の方を向いていたから。フィテナは彼の感情の機微に気付いて、問いかける。


「どうかしましたか、カトレア?」


 カトレアは自身の両手を見ていた。〈指輪〉が嵌められているのは、右手の薬指と小指だけ。他の八本の指は、淡い白さをした肌が広がるだけ。


 彼はそれから、フィテナの左手を見た。全ての指に、銀色に煌めく〈指輪〉が付けられている。カトレアは微かに、眉を顰めた。


「……フィテナ。ぼく、自分が治癒の〈魔術〉しか使えないのが、悲しいよ」


 カトレアの言葉に、フィテナは橙色の目をほのかに見張った。それから彼は、柔らかく微笑う。


「カトレア、貴方はまだ十三歳です。その歳でここまで治癒の〈魔術〉を扱えるというだけで、すごいことなのですよ。その自覚を持ってください」


 フィテナはそう言って、右手でカトレアの銀髪をそっと撫でた。カトレアはその感触に身を任せながら、フィテナの左手に嵌められた〈指輪〉たちを見つめ続けていた。

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