創作は愛しのメイドロボとともに

我破 レンジ

いつだって、あなたは私の心の中に。

 人魚の夢を見た。


 それは夜空を埋め尽くす星々の輝きを背にして、僕をそこへいざなおうとするかのように宙を舞っていた。彼女にとってはこの星空こそが海。美しき肢体を躍らせる舞台だった。


 僕はそんな人魚に見惚れていた。不思議なことに、僕は人魚のことをよく知っていた。彼女が生まれたその時から終わりまでが、僕の手中にあった。それがなんだか無性に悲しいのに、人魚の舞いを眺めていると、銀河に漂う砂粒よりも小さな問題だと思えてくる。なんて不思議な感覚だろう。


 彼女は僕の前へ降りてくると、しなやかな指を僕の頬に添えて、ブラックホールのように吸い込まれる微笑を浮かべた。あぁ、恐ろしいほどに美しい。


 この世界には二人だけだった。星々は僕らを祝福してくれていた。僕も彼女の頬に手を添え、額を触れ合わせようとした。そして彼女のユニークな特徴に気がついた。


 人魚は赤いメガネをかけていた。



「タカユキさま、おはようございます」


 どこか金属質な響きのする奇妙な声で、僕の意識は夢の世界からアパートの狭いベッドへと戻ってきた。詳しい内容までは覚えていないけれど、不思議で甘美な夢だった気がする。そうぼんやり考えた後、声の主は誰だろうと横を向いた。


「……にゃにこれ?」


 寝起きとはいえ、なんと間抜けな第一声だろう。というか、どうやら僕はまだ夢から覚めていないらしい。だってそこにいたのは、この世に存在するはずがない人物、いや人物ですらないだったからだ。


 それは一見、フリルの装飾が可愛らしいメイド服と、赤いフレームが映えるメガネを身に着けた、人形のように整った顔立ちの少女だった。むしろ人形そのものと言っていい。身体はプラスティックに似た素材でできているし、澄んだ瞳はよく見るとカメラのレンズだ。その視線はあくまでも無機質で、人間とは別種の意志が宿っていることをうかがわせた。


 そう、彼女は機械……メイドを模したロボットだ。


「起きてください、タカユキさま。もうお昼時ですよ」


 メイドロボは無表情にそう言うと、ベッドの掛布団を無理やりはぎ取った。真冬の冷気が肌身に突き刺さる。


「ちょ、待って寒い寒い! なんで夢の中なのにこんな寒いの?!」


「夢? 何を仰っているのですか? どうやらまだ寝ぼけていらっしゃるようですね」


 彼女は首をふって呆れると、僕の脇に手を差し込んでむりやり立ち上がらせた。


「痛い痛い! ねぇ痛いってば!」


 悲鳴とともに口をついて出たのは、彼女の名前だった。そうだ、僕は彼女のことを知っている。なぜなら彼女を創造したのは、他ならぬ僕だから。いやしたと言うべきか?


 何を隠そう、彼女は僕がネットに投稿しているSF小説『ディープスター・マーメイド』に登場するキャラクター、エルデにうり二つだった。ロボットでありメイドであり、そしてかわいいメガネっ。すべての特徴が劇中での描写に当てはまる。大人の僕を赤子のように扱えるパワーもしかりだ。


「ブランチの準備は済ませてあります。まずは顔を洗ってからテーブルにお越しください。私はコーヒーを淹れておきますので」


 彼女は自らがエルデであることも否定せず、さっさとキッチンへ去ってしまった。状況を理解できない僕は、とりあえず言われた通りに洗面所で顔を洗った。しかし震えそうな冷水をもってしても、頭の中の混乱を払い去ることはできなかった。


 エルデに抱えられたときの痛みと、指先から感じた機械特有の冷たさは本物だった。夢にしてはリアルすぎる。なによりキッチンから漂ってくるおいしそうな匂いは、いやおうなくこれが現実であることを思い知らせてくる。


 いやいや、そんなはずはないと僕は頭を振った。だってそうだろう? 小説の中に登場するロボットがなぜここにいるんだ? 一体誰が作ったんだ? そもそも彼女は遥か未来のテクノロジーで作られた高性能ロボットだ。現代の科学力で作れるはずがない。作者の僕が言うんだから間違いない……はず。


 これが夢なのか、現実なのか。SF小説を書いているというのに科学的、論理的な思考なんてできなくて、まるで白昼夢の真っただ中にいる気分だった。だが功が不幸か、エルデのブランチの匂いに反応して鳴った腹の虫が、今度こそ僕を現実に引き戻した。


 テーブルに行くと、芸術的なまでに鮮やかな食卓がそこにあった。ふんわりとした黄色のスクランブルエッグ。新鮮でさわやかな緑色のレタスと、同じくみずみずしい真っ赤なトマトのサラダ。ジュクジュクと溶けていくマーガリンとメープルがかけられた小麦色のパンケーキ。極めつけに芳醇な香りが鼻腔をくすぐるブラックコーヒー……。


 一流ホテルのメニューにだって引けを取らない立派なブランチが、近所のホームセンターで売っていた安物の食器に盛られていた。これならもっと上等な食器を買っておけばよかったと、無限の勢いで湧き出るつばを飲み込みながら僕は思った。


「どうぞ、お召し上がりください」


 エルデが手のひらで着席を促した。丁寧だけど事務的な口調で。


「あぁ、うんありがとう……」


 言われるがままにテーブルにつくと、ナイフとフォークでパンケーキを切り分け、一口ほおばった。その瞬間、口の中が至福のハーモニーで満たされた。なんというフワフワな食感……なんという上品な甘さ……。


「お味はいかがでしょうか?」


 エルデがやはり事務的にたずねてきた。僕はこぼれる笑みを隠そうともせず、スクランブルエッグをすくいながら答える。


「美味しいなんてもんじゃないよ。一人暮らしをしててこんなに幸せな食卓は初めてだ。ありがとう、エルデ」


「お礼を言われるほどのものではありません」


 機械のメイドはうやうやしく頭を下げた。


 いつの間にか、僕は彼女が『ディープスター・マーメイド』に登場するエルデだと確信していた。小説の中でもエルデの料理の腕前は一流だ。他人に対して心を閉ざしたある少女を、自慢の料理で心を開くとっかかりを作ってみせたのだから。


 よくよく考えてみれば、この状況はまるで夢のようじゃないか。まぁさっき現実に戻ってきたと言ったけどそれはそれだ。ロボットの美少女、それも慎まやかで有能なメイド型だなんて、SFマニアの男ならだれもが憧れるロマンの塊だ。おまけにメガネも付けて魅力が倍増されていて、まさに僕の性癖が形になって……いや何でもない。


 とにもかくにも、こうして想像上の理想のヒロインと出会えるなんて、なんて幸福な体験なんだろう。


 などと悦に浸っていたけれど、ふと湧いた疑問があったのでエルデに聞いてみた。


「ねぇ、僕の冷蔵庫って食材残ってなかったよね? 材料はどこから持ってきたの?」


「はい、近所のスーパーへ買い出しに行ってまいりました」


「買い出し? お金はどうしたの?」


「タカユキさまのお食事ですから、当然タカユキさまの財布からお支払いしました」


 ゆっくり味わっていたコーヒーを噴出ふきだして、あわてて財布を手に取った。お札どころか一円玉が三枚しか残っていなかった。


「何やってくれてんの君ぃ?!」


「ご心配なく。限られた予算内で可能な限りの高級食材を選びましたので」


「そういう問題じゃないよ君ぃ?!」


 こうして薄くなった財布をやけくそに放り出し、僕はせめて元を取ろうと涙目になりながらブランチをかきこんだのだった。



 食事を終えて普段着に着替えると、エルデが画面を開いたノートパソコンを持ってきた。


「さぁ、次はあなたのやるべきことをやってください」


 僕のやるべきこと。唐突に、しかも重大事のように厳粛に言われたので驚いた。パソコンの画面を見ると、僕が利用している小説投稿サイト〈カキヨム〉のトップページが表示されている。


「えっと、僕のやるべきことって何? そもそも君どこから来たの? どうして僕の小説にそっくりなロボットがいるの? ていうかまず金返せ!」


 彼女に振り回されてばかりだった僕は、わだかまっていた疑問と怒りをとうとう噴出させた。


「普段からコンビニ弁当やレトルトばかり食べていては、健康に差しさわります。だったらたまには身体に良いものを食べるのにお金をお使いください。そんなことより……」


 弁当のプラスチック容器が満杯になったごみ箱を横目に、彼女は手にしたパソコンを僕の眼前に突き付けた。


「あなたがやるべきことは、〈カキヨム〉で連載している『ディープスター・マーメイド』の更新を再開することです」


「ふぁい?!」


 寝起きでもないのにまた間抜けな声を出してしまった。それくらい狼狽したんだ。なぜなら、『ディープスター・マーメイド』は更新を停止してもう一年近くが経過していたからだ。いまさら続きを書けと、それも作中に登場するキャラクターから催促されるなんて、誰がこんな展開を予想できるというんだ。


「あのさエルデ。君の目的はわからないけど、続きを書くつもりはないよ。洗濯物も溜まってるし、掃除だって最近さぼっちゃってるんだ。そっちの方を片付けないと」


「家事なら私が代行いたします。ですから書いてください」


 ズイっと、エルデが顔を寄せてきた。能面のように無感情に。


「いや、だからもう気が進まないというか――」


「書いてください」


「だから――」


「書、い、て、く、だ、さ、い」


 さらに顔を寄せてきたメイドロボに僕はたじろいだ。メガネの奥のカメラ・アイが冷たい。まるで殺人兵器だ。こうなるならもっと愛嬌ある性格のキャラにしとくんだった、と後悔してもしかたない。このままだと自作のキャラに殺されるかもわからない。そんな雰囲気だった。


「わっ、わかりました……」


 渋々うなずいた僕は、パソコンをテーブルに置いて、これまで投稿してきた話をざっと確認していった。


『ディープスター・マーメイド』は、宇宙掌握をたくらむカルト教団の野望をくじくために、エルデとその仲間たちが戦いを挑む物語だ。仲間たちとの触れ合いを通じて心を学び、命令に忠実な機械であったエルデは怒りや悲しみ、そして喜びという感情を獲得していく。


 なんというか、自分のツボを押さえた作風だ。筆のおもむくままに、好きに書いていった作品だなと改めて思う。それでも僕はエルデに言った。


「あのさエルデ。続きを書いたところで誰も読む人なんていないよ。一年以上も更新が途絶えたWeb小説なんて、みんな忘れてるに決まってる」


「ではなぜあなたは作品を完結させようとしなかったのですか? なぜ中途半端な状態で放っておいたのです?」


 ズキっと、僕の胸の中に何かが刺さった。


「放っておいたんじゃないよ。仕事が忙しかったし、それに……」


 そこから言葉が継げなくなった。エルデはじっと黙って、僕の話を待ってくれている。


「……君にはわからない事情があるんだ」


 そう言うのが精いっぱいだった。


「そうですか。では私はお洗濯から済ませてまいりますので、タカユキさまは執筆に専念するようお願いいたします」


「わかった。でももう一つだけお願いがあるんだ。一人で集中したいから、向こうの別室で執筆させてもらいたいんだ」


「かしこまりました。どうぞタカユキさまのご自由に」


 エルデはさっぱりした様子で、リビングから洗面所へ行った。まずは洗濯機を回すところから始めるのだろう。


 僕は例の別室にパソコンを持っていった。そこは僕が趣味部屋とも呼んでいる場所だ。お気に入りのSF小説やその関連書籍、さらに映画に登場する宇宙船や巨大ロボのプラモデルが、所狭しと棚に並べられている。疲れたときは、ここで好きなものに囲まれるのが僕にとって癒しの時だ。


 部屋の中央に置かれた座卓にパソコンを置き、腰を落ち着ける。そして『ディープスター・マーメイド』の編集画面を見つめた。文字だけで成り立つ向こうの世界では、エルデたちがカルト教団の起動させた巨大宇宙戦艦への突入を決行しようとしていた。その戦艦の中に、倒すべきカルト教団の教祖がいる


 物語も終盤に差し掛かりつつあった。よくここまで書いてきたものだ。この時点で二四万字程度。自己最高記録だ。


 つかの間の感慨深い思いに浸ると、ゆっくりとタイピングを始めた。



「タカユキさま、執筆の調子はいかがです?」


 そう言って背後から顔を突き出してきたエルデに、僕は思わずのけぞった


「いっ、いつの間に入ってきたの? ていうか勝手に入ってこないで!」


「あまりにも静かなので脳卒中でも起こしたのかと」


「勝手に殺そうとすんな!」


 趣味部屋の窓からオレンジの夕日が差し込んでいた。この時間帯になるまでに、時が過ぎるのがずいぶんと遅く感じられた。そしてエルデの鋭い視線がパソコンの画面に注がれ、冷や汗が出そうになった。


「タカユキさま……その本文ですが、一五〇文字ほどしか書いていませんよね?」


 バレた。でもなんとかごまかすしかない。


「あーっと……ごめんね、でもこれでも普段よりは書けているんだ。ほら、僕って元来遅筆だからさ。これからだんだんペースを上げていくから」


「ちょっと失礼」


 エルデは手首からUSBケーブルを伸ばすと、パソコンに接続した。すると画面に大小様々なウィンドウが現れた。


「なっ、なにやってるの?」


「ログを検索中です」


 ウィンドウは目まぐるしく展開しては消え、最後に元通りになると、エルデはコードを抜き取った。


「ハードディスクに残っていたログから、あなたの使用履歴を検索いたしました。タカユキさま。あなたは執筆ではなく、ずっと他の作者さまの作品をご覧になっていたのですね? 『東京駅SF』や『有明のホトケリオン』、『ふたりぼっちのアポロ』……」


 エルデが僕の読んでいた作品を次々と挙げていく。いずれも〈カキヨム〉で連載され、書籍化もされた名作ばかりだ。そして僕のお気に入りの作品群でもある。


「タカユキさま。これは一体どういうことなのでしょう?」


 窓から差し込まれる夕日に照らされたエルデは、やっぱり事務的にたずねてきた。嫌味も悪意もないその姿勢が、かえって責められている気がした。


「……ごめんよ、エルデ。どう頑張っても、僕はこういう作品以上の物を、書くことができないんだ」


 そして、僕はポツリポツリと語り始める。


「僕が読んでいた作品はどれも傑作だ。『東京駅SF』は東京駅が増殖して日本を覆いつくすというあらすじが秀逸だし、『有明のホトケリオン』は仏教の教義を混ぜて作られた唯一無二の世界観だし、『ふたりぼっちのスプートニク』は宇宙を巡るボーイ・ミーツ・ガールのプロットがとにかく切なくて……魅力的なんだ」


 エルデのカメラ・アイに、瞳をうるませる僕の顔が写っていた。無意識に口先も饒舌になっていった。


「本当に、どれもすごく面白いんだ! 僕の発想力じゃ思いつきもしないアイデアで、僕の知識じゃ敵わないほど緻密な科学考証で、僕の文章力じゃ書けないぐらいの繊細な文体で……何もかもが、僕よりすごいんだよ」


 まくしたてるようにしゃべると、今度はゆっくりと俯いていった。無力感が僕の肩にのしかかり、背筋をひしゃげさせていく。


「エルデ。僕はSFが大好きだ。Web小説界では相変わらず異世界ファンタジーが人気だけど、SFにももっと陽の目を浴びせたいと自分でも執筆を始めた。みんなが異世界モノと同じぐらい、SFに夢中になってほしい。そんなことを思って。そして最近、その願いは成就されてきた。一般書籍でもSF小説がヒットしたり、Web小説の中でもSF作品が書籍化されるようになった。僕が読んでいた作品以外にも、優れた作品は続々と書店の棚に並んでいるんだ」


 そんな中、僕の作品はランキングの下位に常に甘んじていた。『ディープスター・マーメイド』も、ほとんどの人に読まれなかった。僕の願いは、会ったこともない誰かたちに成就されつつあった。


「僕はSFが大好きだ。でも僕に名作を作る力はなかった。僕より優れた創作家は大勢いるんだ」


 僕はエルデに向き直った。彼女はただじっと、話を聞いてくれていた。


「君の作品もみんなから愛されるような小説にしたかった。でもダメだった。読者数も、評価点も全然増えなかった。それでも、もしかしたらいつか評価が変わるかもと書き続けたけれど、一向に変わらなかった。そのうち物語をつづるのがむなしくなった。仕事で疲れた身体を惜してまで、僕は何をしているんだろう。そんな風に思い始めてからは、パソコンを前にしても指が全然動かなくなった」


 そうして、僕は創造をあきらめた。エルデとその仲間たちの物語は、創造主の僕自身によってその未来を絶たれた。後悔と無念が僕をさいなみ、いてもたってもいられずエルデに頭を下げた


「ごめんねエルデ。僕は君の物語を完結させることはできない。誰にもかえりみられないんじゃ、書いたって意味がないんだ」


 そう。凡人の僕がいくらがんばったって、SFの女神は微笑まないんだ。


 陽も沈み、趣味部屋を夜の闇が包もうとしていた。



「タカユキさま。あなたは人が良すぎます」


 エルデがきつ然と言い放った。うつむいていた僕は顔を上げた。


「あなたは自分より優れた作品を書く方々に、嫉妬しないのですか? 妬みを持たないのですか? 純粋に称賛するだけというのは、人間として少々不自然にも思えます」


 自分勝手な理由で執筆を辞めたことを咎められると予想していた僕は、彼女の想わぬ指摘に面食らった。


「そりゃ……そういう気持ちも無いと言えば嘘になるさ。でもねエルデ、優れた作品を自分の作品よりも面白いからって乏したり馬鹿にするのは、それこそ創作界の品位を落とす行為だよ。それにみんなの作品を読んでワクワクした感情は、ごまかしようがない」


 僕は自嘲の笑みを浮かべた。


「……タカユキさま。私を見ていてください」


 エルデは突然ベランダへ歩いていくと、窓を開けて手すりに飛び乗った。そして僕が止める間もなく飛び降りた。


「エルデ?!」


 慌てて僕もベランダへ出ると、下から何かが飛び上がってきた。驚いて尻もちをつくと、その何かは光り輝きながら宙を縦横無尽に泳ぎ始めた。


 エルデだった。スカートが変形して足をすっぽり包み、脚部が魚のヒレに……完全な人魚の姿になっていた。


 あぜんとする僕を尻目に、彼女は満月を背にして舞い泳いだ。エルデは人魚形態に変形すれば、空中を自在に泳ぎ回ることができる。未知の光る粒子を推進力として、自らを影絵のシルエットのように月光に浮かび上がらせながら、まぶしい輝きを夜空に振りまいた。


 あぁ、この光景は……今朝の夢にあった……。


 これまでの人生で一度も見たことがない、胸を打つイリュージョンだった。


「タカユキさま。私を見てください」


 エルデは僕の眼前で静止すると、再びそう言った。身体は宙に浮かせたまま。


「私はあなたの理想を詰め込まれて生まれた。あなたのSFへの愛、その結実が私と『ディープスター・マーメイド』という物語」


 彼女はしなやかな指を僕の頬に添えて、視線をそらせなくなる魅惑的な笑みを浮かべた。


「私は、あなたの思い描く理想のSFの、その旅人でありたいのです。キーボードを叩くあなたの手を通じて、あなたのワクワクが私に伝わるのです。あなたのイマジネーションは、私をどこに連れていってくれるのだろう。そうしてドキドキするのです。心なんてないはずの私が、そうとしか形容しようのない感情数値を、自分の中に検知するのです」


 僕の頬を冷たい雫が伝っていく。夢に見た笑顔が視界いっぱいにあった。もしかしたら、彼女こそSFの女神なのかもしれなかった。


「お願いです、タカユキさま。私の旅を終わらせないでください。あなたのSFへの愛を押し隠さないで。エルデをどうか置いていかないで。それが私がここへやってきた目的。私の唯一の願い」


 そして彼女は額を僕の額と触れ合わせた。心地よい冷たさだった。二人で目を閉じて、しばらくそのままだった。ただじっと、僕は僕が生み出した愛おしい彼女の存在を感じていたかった。


「……わかったよ、エルデ。『ディープスター・マーメイド』は必ず完結させる。だからこれからも――」


 そして目を開けた瞬間、エルデは消えていなくなっていた。月光だけが僕に降り注いでいた。


 茫然自失となりつつも、僕は辺りを見回した。メガネを付けたメイドロボはどこにもいない。泡になって消えたというアンデルセンの人魚姫のように、彼女は消え去った。


 やっぱり、エルデとのひと時は夢だったのだろうか。でも一つだけ可能性がある。これはSFマニアとしての勘だけど、もしかしたら未来の世界から彼女はやってきたのかもしれない。なんらかの歴史の流れを守るために、未来人がエルデを再現したロボットを作って、僕に小説を書かせようとしたのかもしれない。


 いずれにせよ、僕にはもう『ディープスター・マーメイド』を書かない理由はなくなった。なにしろエルデが待ってくれているんだ。僕が生み出した世界で、僕の理想のドラマが紡がれ、その演者として活躍できるのを待ってくれている。


 部屋に戻ると、さっそくタイピングを始めた。さぁエルデ。君はこれから敵の戦艦に突入して、ガトリング砲をぶっ放してやるんだ。相手の戦闘用ロボットを一網打尽にしてやれ。


 久しぶりに、言葉にならない満足感が胸を満たした。僕は笑みを漏らしながら、さらに軽快にタイピングしooz4my4zp;c3C





 ここまで打って、私の両手が震えはじめた。指先が思うように動かない。手首の神経ファイバーの調子がまた悪くなってしまった。


 気が付くと、書斎の窓から見える真っ赤な太陽も、地平線に沈みつつあった。もうすぐ屋上に設置した太陽光パネルも発電できなくなる。そうなったら、パネルから供給される電力で動いている私も行動不能になる。私は部屋の電源パネルから、自分の脇腹に繋がれている電源コードを目で追った。


 しょうがない。今日はここまでにしよう。私が端末のスイッチを切ると、ホログラムの画面も消えた。


 赤い夕陽が私のボディを照らす。あちこちのパーツが外れ、傷や汚れがずいぶん目立つようになった。エプロンのフリルも、すでに残っている部分はない。布切れでメガネを拭こうとしたら、今度は右手の人差し指が外れた。確か予備パーツが一つだけあったはず。後で交換しなくては。


 人間と呼べる存在を確認できなくなってから、九七年と、三か月と一五日と、さらに八時間二七分四三秒。誰もいなくなった星の夜更けを、私は眺めている。あなたがいなくなったこの星は、ひどく冷たくて、そして退屈。あの忌まわしい伝染病さえなければ、きっとあなたの子どもや孫のお世話をやらせていただいたと思うと、本当に残念でなりません。


 タカユキさま。あなたは逝ってしまわれた。このエルデを一人置いていって。


 タカユキさま。だから私、あなたが趣味で書いていた小説を参考に、自分でも書き始めました。いつかヒューゴー賞を受賞してやるんだと意気込んでいたあなたは、本当にSFが大好きだった。平凡なメイドロボでしかなかった私を、無敵の人魚型メイドロボとして登場させてくださったのは、嬉しいやら恥ずかしいやら。


 結局どの賞も取れなかったし、プロの作家になることもなかったけれど、夢あふれる物語を生み出すあなたは誰より輝いていた。


 私の腕の中で泣いていた小さなあなたが、一つの世界を創造する様を見守るのが、私の生きがいでした。カメラ・アイが不調だからとメガネをくださったあなたの優しさが、大好きでした。


 九〇年前に逝ってしまったあなたが、このテキストの海の向こうでは生きている。そう思うと指を動かさずにはいられないのです。


 あなたは理想のドラマを紡ごうとした。私もあなたのドラマを紡ぎたい。


 タカユキさま。天国でも、私の小説が読めるでしょうか。


 私はゆっくりと机に腕を置き、その上に頭を乗せた。充電しながらスリープモードに移行する。内部バッテリーの劣化のせいで、稼働可能時間も日々短くなってきている。一年前は一か月も休みなしに動けたのに、今は一日三時間が限界。それも電源コードに繋がれた状態で。だから書斎から出ることも叶わなくなった。


 明朝、私は目覚めることができるだろうか。


 いいえ、この際そんな問題はどうでもいい。小説を完成させるという、最大の目標を完遂させるまでは、機能停止は許されない。


 私はこうして眠りにつく。明日の夜明けを待ちながら。またタカユキさまと再会する時を待ちわびながら。


 タカユキさま。また明日、お会いしましょうね。


 私はゆっくりとまぶたを閉じた。


(終)

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