ライラックに捧ぐ

宮本晴樹

ライラックに捧ぐ

どうしよう、と思った。

正確には、どうしよう、と毎日思い続けている。朝が来ると。玄関を開けて、この光景を目にすると。

何一つ不自由なく育てられた私が唯一覚えた仕事は、玄関を出て目の前の小道を挟んだところにある小さな菜園の世話だったけれど、それをすることはもうないだろう。菜園は人びとの靴の裏で踏みしめられてしまった。野草もしばらくは生えないかもしれない。

そうやって菜園に集まって膝をつく人びとから捧げられる肉やパンを、後からそっと菜園へ取りに行きながら、私は思う。

――どうしよう。とんでもないことになってしまった。


かつて、私は両親に愛され、勉学に励む、世間知らずな田舎の一人娘だった。私に出来ることは大股一歩で端から端までたどり着いてしまう小さな菜園でいくつかの葉野菜を育てることだけ。父は私のことを慎ましいと評したけれど、それは欲がない代わりに好奇心も薄く、何も知らない自分や何も出来ない自分に不満を抱いていなかったということだ。その証拠に、私は父の仕事をよく知らなかった。父の元にはたびたび人が訪ねてきて、父を先生と呼んでいたのは、覚えている。父は忙しい人で、母が私に習わせていたバレエの発表会を、ついぞ一度も観に来なかった。

バレエは、好きだった。私が勉学と野菜を育てること以外に唯一続けられたのがバレエだった。母は、本当は私に音楽を習わせたかったのだけれど、私は音楽や楽器に興味を持てなかった。だから、バレエ教室のピアニストが私と歳の変わらない少女だと知って、ひどく驚いた。彼女は背が高くて、大人と同じようにピアノ椅子に腰かけて、叩くべき鍵盤を叩いていた。その演奏が音楽として巧みなのかは、音楽に興味のない私には分からなかった。だけど、彼女の鍵盤を叩くリズムは正確で、一度だって間違えたことはなかった。


それから私が彼女に話しかけるまで実にひと月はかかった。彼女はいつもレッスンが始まる直前にピアノ椅子に座り、レッスンが終わると誰よりも早く教室を出ていく。だけどその日は、ピアノの調子が悪く、レッスン後に彼女がピアノの様子をあちこち見て回っていた。私は、いつも同じ曲ばかり弾いていて退屈ではないかと訊ねた。彼女は不機嫌そうに、別に、と答えた。いつも笑わなかったし、話しかけても不愛想なのは続いたけれど、それから私たちはレッスンの後に話をするようになった。

彼女はピアノを弾き始めて二年だという。学校に古いピアノが置かれるようになり、それを触って覚えたらしい。

彼女にとって、ピアノはどこまでも日銭を稼ぐための仕事だった。彼女が教えてくれたのは、港に行けば仕事はいくらでもあること。彼女の父親は実際に港で働いていること。母親も問屋街で働いていること。父親から彼女も港で働くように言われたが、学校の卒業証明が必要ですぐには働けないこと。そして二年前にピアノの弾き方を覚えると、歌唱の伴奏や代理演奏を引き受けてきたこと。バレエ教室に来たのも求人広告を見たからだった。求人広告がどんなものか、私は知らない。

彼女は学校を卒業して港で働けるようになるまでは、ピアノで働くことを両親に許可してもらっているという。彼女が学校を卒業するまで――それはつまり、私が学校を卒業するまでなのだけれど、あと一年だった。だけど、彼女はもう大人のように私には思えた。きっと、私や私の周りの子供たちよりもずっと早く大人になったのだろう。

それからしばらく、私と彼女はレッスン後に一緒にいることが多くなった。彼女が住んでいる街のことを教えてもらったり、私が学校で習ったことを話したり、家からこっそり持ってきたお菓子を分け合ったり。

ある時、いつもの通りレッスンの後に私と彼女は教室に残って話をしていた。いつもの通り、夕暮れ前には教室を出る。それでも彼女に家に着く頃にはとっぷり日が暮れている。教室を出たところで、その日は彼女が立ち止まった。渡したいものがあると言って、鞄から取り出したリボンを私の掌に乗せた。髪留め用に加工されたものだ。お菓子を分けてくれたお礼、と彼女は言った。リボンはちょうど今の、夕暮れの空を切り取ったような美しいライラック色をしていた。私が、ありがとう、と言って受け取ると彼女がぎこちなく私に笑いかけたのが分かった。

その日以降、彼女がバレエ教室に現れることはなかった。突然のピアニストの不在にレッスンは一時期混乱したが、間もなくレッスン自体がなくなった。海の向こうから、新しい伝染病が広がりつつあったのだ。


――私の幸せな少女時代はここで終わる。


伝染病は全く終息の気配を見せず、世の中は様変わりしてしまった。人から人へ伝染するといわれ、両親は女中を早くに解雇した。田舎に帰れた方が彼女の身のためになる、と父は言った。本当にその通りで、まもなく父の様子がおかしくなり、あっという間に床に臥せるようになったかと思うと高熱に何日も苦しんだ上で死んだ。父の仕事で、たくさんの人がこの家を訪れていた。だからだろうか、この町に伝染病が広まるのもあっという間だった。父が町の人たちに病気を移したのか、それとも町の人たちが父に病気を移したのかは分からなかった。

町の人たちは次々死んだ。そのうち私の唯一の家族だった母も死んだ。母は私を家から出さないために、病気を隠して一人でずっと外出を続けていて、ある夜冷たくなって帰ってきた。

そして、それはあまりに唐突に訪れた。

ある朝、扉を叩き続ける音に何事かと思いながら玄関を開けると、見知らぬ親子が立っていた。隣村から噂を聞きつけて来たのだという。私はその噂を知らない。親子の母親の方に説明してもらった。曰く、この町で一人だけ、伝染病にかからない少女が居る、とのことだった。驚いてしまった。私が家にこもっている間になんと町中の人が病気になっていて、両親が亡くなってなお伝染病にかかっていない私は異質な存在になっていたのだ。外の世界の状況が分からず困惑している私に、親子は籠に入ったいくつかの卵を押し付けて、神に祈りを捧げて帰っていった。その日からずっと、私は、どうしよう、と毎日思い続けている。隣村の親子のような人たちは日に日に増え、ついには朝が来ると家の前に集まって勝手にお祈りをするようになった。玄関を出て、小道を挟んですぐ目の前の私の菜園で。冬の間何も育てていなかったから、誰もそこが菜園だとは分からなかったのだ。そうやって捧げられる卵やパンを、後からそっと菜園へ取りに行きながら、私は思う。

――どうしよう。とんでもないことになってしまった。

伝染病はまだ広まり続けている。菜園に祈りに来たけれど、結局病気になった人だっているはず。祈りも、捧げ物も報われなかったことを受け入れた時、人々は私に対して一体どんな気持ちを抱くんだろうか。最初に卵を受け取ってしまったのが間違いだったと思う。私はどうして人々に一度もやめてくださいと言えないのだろう。

あくる日も、そのまた次の日も、私はずっと静かに混乱しながら、かといって何か言うことも出来ず、カーテンの隙間からそっと人々が祈りを捧げる様子を見ていた。そして人々が去ってから、そっと外へ出る。

菜園に置かれた捧げ物に、ライラック色のリボンが混ざっていることに気付いた。

私はその時、自分が何を言ったかは覚えていない。だけど、彼女の名前の形に唇を動かしたと思う。私は顔を上げて辺りを見渡したけれど、既に往来に人の姿はなかった。

その日の夜、私は家じゅうの必要なものを鞄に詰め込んで、がらんとした部屋で眠りについた。自分でもこれはどうしたことだろうと思う。彼女に会いに行こうと思った。何も自分で決めたことのない私が、多分初めて自分で決めたことだった。ライラック色のリボンを思い出にして、ずっとこの町にいるなんて出来ない。


明朝、私は誰よりも早く起きて支度をし、そして玄関の扉を開けた。普段ならまだ誰もいないはずの菜園に、人影があった。

私は何を考えるよりも早く彼女の名前を叫んだ。自分でも驚くくらいの大きな声が出た。彼女が振り返る。不機嫌そうないつもの顔に、少しだけ驚きが混ざっていた。私たちは、お互いに一体何を言えばいいのか分からなくなって、見つめあったまま、しばらく立ち尽くしていた。それから少しの時間があって、やがて彼女が、手紙を送った、と言った。私は受け取っていない。しばらく前からこの町の郵便は機能していない。手紙は三通送ったらしい。だから私たちは、手紙三通分の会話をしなければならない。バレエ教室に使っていた今では無人のアトリエへ向かう。この後お祈りに菜園へ集まる人たちは、家に私が居るか居ないかなんて多分気にしない。

広いアトリエに二人で寝ころんだ。彼女が今までどうしていたのか、私が訊ねると彼女は話してくれた。彼女の住む港町にも伝染病は蔓延していたこと。彼女の家がある通りでも、ほとんどもれなく皆が病気になったこと。彼女と、彼女の家族も例外ではなかった。一つだけ不思議なことがあったとすれば、その通りで伝染病にかかった人は皆死んでしまったのに、彼女だけが快復し生き延びたということだ。

だから彼女は恨まれた。同じ通りで、同じ病で家族を亡くした人たちに。彼女に対する視線や仕打ちは日に日に酷くなっていき、数日前に家を出てこの近くで隠れていたのだという。

私は彼女が生き延びてくれたことを何よりも喜んだ。そして彼女が私に手紙を送ってくれたこと、訪ねてきてくれたことを次に喜んだ。私も彼女も、もう誰も頼るすべがなかったのだ。

世の中は変わり果てて、もうこのアトリエで彼女が弾くピアノに合わせてバレエを踊った時間は返ってこない。そして変わり果てた町と人々の中で、どうやら私たち二人だけが異質な存在らしかった。

私も、もうこの町で暮らしていくことは出来ないだろうと思っていた。私が彼女のように人々から憎まれ蔑まれてたっておかしくなかったはずだ。私はずっとそれを恐れている。あの祈りはいつまで続くのだろうか。主を失った家の前で。あの人たちは何を祈っているのだろう。本当は、何に祈っているのだろうか。

これからどうする宛てもなかった。ただ、ここではないどこかへ行く必要があることだけは分かった。彼女にも訊いたけれど、彼女もどこへ行くかは考えていなかった。また会話が途切れた。開け放ったアトリエの扉から風が入ってくる。

不安がないといえば嘘だった。私は今だって世間知らずな田舎の一人娘で、出来ることは大股一歩で端から端までたどり着いてしまう小さな菜園でいくつかの葉野菜を育てることだけ。彼女はピアノを弾く。でもこのさなかにピアニストの仕事が果たしてどれほどあるのだろうか。

私たちはお互いに何も言わず、だけどやることが分かっているかのように二人して起き上がった。そして、私は何日か前に菜園に置かれていたライラック色のリボンを、彼女の掌に載せる。彼女は何も言わずにそれで自分の髪を結った。彼女の短い髪がなんとかリボンに束ねられる。

アトリエから出ると、とっくに朝が終わって日が高く昇っていた。風は強かったけれど、私たちは町の外に向かって歩き出した。

いつか、どこかへ辿りつけるように、私は祈った。二人のリボンが風に揺れていた。

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