第3話 ナーディヤ

 雨季、洗濯女のザンジュの女奴隷アマは憂鬱そうだ。しとしと降る雨をうらめしげに見て、下着やシーツを盥で洗う。

 クンフズ、ハウラはどこ?

 わたしは通りかかって彼女に訊く。

 どうしてわたしがあのヌビア女の居場所を知っているんで?

 太い眉をしかめ、こめかみににじむ汗を手の甲でぬぐう。

 だって、いつも彼女を見張っているでしょう。

 クンフズは鼻を鳴らした。

 わたしは洗濯で忙しいんですよ。子守女なんざ見張っている暇はありません。

 でも……。

 中庭でタグリードさまを見ていましたよ。

 そう。

 ふふ、とわたしは笑い、サンダルを蹴立てて裏庭を出て行く。

 母さまはイランイランのしげみの下で、傘を差し掛けるハウラに見守られながら歌っている。


 どうか 雨のあと 露の下りた暁

 しっとりと湿った森

 あのおおきな樹の下に

 わたしを連れていってください


 母さま。

 まあ、ナーディヤ。

 母さまは無数の編み込みをした、雫のようなかたちの固まりをいくつも額に垂らした髪を揺らし、わたしを見た。

 雨のそばにいるとおからだが冷えます。

 そうお?

 母さまは雨にけぶる湿ったまつげを震わせ、首を傾げる。

 わたしはひざまずき、母さまのカフタンの裾を持ち上げる。濡れて汚れた絹は、クンフズが見たら卒倒しそうだ。

 サーリヤが広間で葦笛の練習をしています。見てやってもらえますか。

 ええ。

 母さまはゆっくりと立ち上がる。脚が震えていて、よろめく。わたしとハウラが支える。

 階段を登り、二階の広間に行く。弟のサーリヤが、シーラーズから来た音楽教師に葦笛を習っているので、時折こうして自分で練習をする。

 母さま。

 弟がぱっと顔を輝かせる。母さまに似た黒檀のような肌、父さまに似た鋭い鼻筋は、黙っていれば険があるように見えるのだが、薄紅の朝靄にさえずる小鳥のような声で話し出すと、みながかれを目で追いかける。父さまと母さまにとっては、ようやくできた男の子だ。

 なんの曲を練習しているの。

 ふたりは音楽について話し始める。ペルシャの、もの寂びた風のような詩。わたしにはよくわからないが、サーリヤが旋律を決める規則について滔々と話す。母さまはほほえんでそれを聴く。

 こうかしら。


 エスファハーン

 きらめく施釉煉瓦は乙女のひとみ

 尖塔はいくさびとの黄金の剣


 ええ、ええ、そうです。

 言って、サーリヤは母の旋律を葦笛で繰り返す。


 いとしいカモシカの君

 掻きいだいて 抱き締めておくれ

 この都に帰ってきたわたしを


 幸福を歌う詩を、母は切実に、ものがなしく歌う。その迫真は、絶望も愛もしかとは知らぬわたしや弟の胸を衝く。

 しあわせを感じながら、悲しみに胸を絞ることなどあるのだろうか。

 母は笑みを浮かべながら、切ない声で歌い、わたしの肩に触れ、枯れ葉だまりを震わせるかすかな風のように撫でる。

 わたしは母に寄り添う。いとしい母さま。あまりに儚く、けれど子どもを二人産み、歌をただひとつのなぐさみにして生きているサカラヴァの女人。



 七つの歳になってから、わたしは隣町のクルアーン学校に通っている。ハウラや、都合がつかなければ他の女奴隷が、わたしを浜辺まで連れて行き、そこで漁師の娘にわたしを引き渡す。

 まわりはマングローブの森で、陸路はすぐ雨で通れなくなるので、舟に乗る必要があるのだ。

 学校は午前中は男子が通い、女子は午睡のあとという決まりになっている。わたしはバナナの葉にくるんだ昼食と竹の水筒、勉強に使う木の書板を持ち、初めてオランに会う。ラフィアの布を胸から下に巻き、それ以外はむき出しで、七歳のわたしは戸惑う。他人の肩や二の腕を、初めてまじまじと見る。

 彼女はわたしの四つ上で、上背があり、おおきな目でわたしを見つめる。

 泳げる?

 まっすぐに訊かれて、わたしは首を傾げる。

 泳ぐ?

 海のなかに入ったことは?

 ……ない。

 ……ハウラ、この子はだめ。連れていけない。

 オランは、自分より大柄な女奴隷に、はっきりと言う。

 そんなこと言わないで。おとなしい子よ。勝手に海に落ちたりしないわ。

 でも、そんなずるずるした服を着て、風向きが変わって舟がひっくり返ったら、助けられないかもしれない。

 あなたが舵を取る舟なら、そんなこと起こらないわ。

 いいえ。だれが舵を取ろうと、風の精霊かぐわしい君のなすことは止められない。

 でも……そうね、ナーディヤさま、海に入ってみましょう。

 えっ?

 わたしは手をつないでいた女奴隷を見上げる。

 だいじょうぶ、この天気ならなにもこわいことは起きません。海に浮かぶのは楽しいものです。

 ハウラはまわりに自分たち以外だれもいないことを確かめると、さっさとカフタンもヴェールも脱ぎ、シフトドレス一枚でわたしのカフタンを剥ぎ、靴とストッキングも脱がせる。

 さあ、こちらへ。

 白砂の上を、そろそろと歩く。波が寄せ、わたしの両足を洗う。わたしは目を見張る。感じたことのない感触。水が、生きている。井戸で汲んでたいせつに使う水は死んでいるのだ。これは、生きている水。ゆっくりと、ハウラは進む。ドレスの裾を波がもてあそび、彼女のくるぶしが見える。皺寄った黒い肌。足のうらは黄土色。そう思う間もなく、彼女は海に入っていく。彼女を追いかけて歩くうちに、水がわたしの脚に、腰にまとわりつく。引いては寄せて、気まぐれな母のように抱擁する。

 母の代わりに、ハウラがわたしを抱き上げる。陸にいるよりも簡単に、わたしのからだは持ち上がる。

 ハウラ。

 わたしは初めて感じる感覚に戸惑い、身になじんだ子守女にしがみつく。

 もうすこし向こうへ行きますよ。

 ハウラが沈んじゃう。

 ふふふ、と彼女は笑う。

 だいじょうぶです。力を抜いて、身を任せれば、水には浮かぶことができます。ほら。

 彼女が脚を砂から離す。わたしたちは海に浮かぶ。ふわ、と浮き上がる感触。わたしは手をひろげる。腕が、波を感じ取る。

 ナーディヤさま、上を向いて、仰向けに寝転がるようにするんです。

 ……こう?

 そう。浮いていますよ。手を放しますね。

 しっかりとした彼女の手の感触が消え、わたしは海にひとりで浮かぶ。腰が浮かび上がり、仰向けになって、青い空と、行き交うカモメを見上げる。

 生きている水が、わたしを支え、わたしを揺らす。こうやってあやされ、眠りについたことがある。やすらぎ。波の歌声。おだやかで、身勝手。

 ナーディヤさま!

 ハウラがさけぶ。わたしのからだを、おおきな波がさらう。

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