第2話 ムリンギ

「こんにちは。ドクター・ジョスリン・ムリンギ・ワ・ングギ」

 タンザニア沿岸部、キルワ・マソコの、南アフリカ系のロッジで開かれた東アフリカ研究学会の分科会で、わたしは初めて松岸朱理まつぎししゅりに会った。「N」をはっきり発音する日本人はめずらしい。

 分科会では今後進捗する共同研究について話し合われ、フランスとドイツの基金が出資する研究グループに、彼女とともに参加することになっていた。わたしはすでに研究休暇に入り、彼女はフランスの大学の在外研究員として資金を確保していて、研究に集中できる環境にあった。

 研究グループの顔合わせと、今後の方針とスケジュールの確認は、オンラインを含めて行われていたが、彼女は実際にここに来ていた。

「よく来れましたね。この状況で」

 新型コロナウィルスの世界的流行は、先進国ではワクチン接種の整備のために落ち着き、治療薬もいくつか流通し始めていた。ここアフリカではやはりその準備は遅れに遅れ、まだマスクをしているひとがたまにいる。しかし、キルワを含め観光地や商業中心地では、コロナ前と同様のひとの移動が戻り始めていた。

「もともとタンザニアにいたんですよ。二〇二〇年はさすがに日本に戻りましたが、渡航禁止が解除されたらすぐにダルエスサラームに戻って仕事をしていました」

 わたしたちは、ロッジのラウンジで座り、分科会のあとの個別打ち合わせをしていた。

「よくもまあ。日本にいたほうが医療の心配もないでしょうに」

 彼女は肩をすくめた。

「それは、コロナだろうがエボラだろうが変わりませんよ。アフリカにいないと、ずっとそわそわしてしまって、なにも手に着かないんです」

 わたしは笑った。

「アフリカ狂いの日本人!」

 彼女は目をくるりと回した。

「もともと生まれはマレーシアで、日本にいたのは大学の四年間だけです。日本人かと言われると自信がないな」

「あらそう。さっきも訊いたけれど、主な関心は東アフリカのどこなの?」

「補助金の出るところだったらどこでも。修士論文はマダガスカルで、博士はエチオピアでした。でも、スワヒリはずっとやりたくて、PhDを取って五年でタンザニアの仕事が見つかって、わたしは幸運ですよ」

「考古学というと、前近代が中心?」

「ええ。まだこちらでは近現代の遺構をどうこうする段階ではないようで。壊されるザンジバルドアやマジョリカタイルを見ると胸が張り裂けそうですが。前近代でもよく胸は張り裂けそうになりますけど。植民地化前、特に西欧到達前に興味があります」

「白人の暴力には興味がない?」

 彼女はコーヒーカップから目を上げ、わたしを見つめ返した。

「ありますよ。いまアフリカにたかるアジア人の暴力にも。でも、それを明らかにするためには、そのひとびとがやって来る前のアフリカを明らかにする必要がある。考古学にできるのはそれです」

「そうね……」

 彼女はほほえんだ。日に焼けた頬はざらついていて、目尻に皺ができる。東アジア人の年齢はよくわからないが、三十代後半だろう。ポストドクターとしては、順当な年齢だ。洗い晒しの髪を後ろでまとめ、リネンのシャツにカーゴパンツ。育ちや経歴を見れば、もっと早く常勤に着けそうなものだが、フィールドがアフリカならそうもいかないのだろう。身なりからしてまったく学界政治に興味もなさそうだ。もっとも、アフリカ研究の学者にはそういう人間が多い。

「インド洋交易は東南アジアにもつながっています。西欧到達前の東アフリカ沿岸部の繁栄は、西洋中心の世界史叙述を超える鍵になる。そういうおおきな話は置いておくとしても、わたしはここで生きたアフリカ人、ひとりひとりの暮らしを知り、かたちにしたい。かれらは海を通して、わたしの生まれた場所を見通していたはず」

「というのがアカデミア向けの説明?」

 わたしは笑みを返しながら言う。彼女はからから笑った。

「まいったな。わたしみたいな人間がアフリカにいるとだいたいしつこく訊かれるから、こういう説明は慣れてますが。ジョス? ムリンギのほうが良いですか?」

「どちらでも。シュリで良いかしら」

「ええ。ムリンギ、学問は好きだからとか、楽しいからやるものではないと思っていますが」

「そう?」

「必要だからやることだと、わたしは思っています」

「そう言えば補助金が出るからではなくて?」

「ええ。あなたがたもそうだと思っていますが、ちがいますか?」

「そうね」

 シュリはうなずく。

「無数の個人の、ひとつひとつの人生の、傷や喪失や、悲しみや愛も、」

 彼女はカップをソーサーに戻し、両手をてのひらを上に差し出すようにした。

「天上から降る雫のように受け止めることができます。あるいは、地に沁み込んでしまったものを掘り出すことも。考古学というのはそういう営みです」

 彼女は両手を組み、わたしを見返した。

「わたし自身の人生も、そのなかに含まれています。あなたの人生も」



「考古学者にキルワ・キシワニを案内してもらうなんて、贅沢ね」

 ロッジの近くの船着き場から、モーターボートで一〇分程度で、キルワ・キシワニ――島のキルワに着く。いまはちいさな漁村だが、ここにはかつて、一万人のひとびとが住み、インド洋交易を行っていた。スルタンの宮殿、金曜モスク、小モスクなどがある。観光客は許可証を取ってガイド付きで入島する必要があるのだが、わたしたちは島民にまざって島に入っていく。シュリの顔は船頭や島民に覚えられており、入場料を払うこともない。彼女のスワヒリ語はザンジバル方言で、わたしにはすこし聞き取りづらいが、しなやかなからだつきの漁民たちと冗談を交わし、子どもたちとはサッカーのまねごとをする。

 プラムを買い、かじりながらアラブ式の城塞であるゲレザや、いくつものドームがつらなる金曜モスクを通り、マクタニ宮殿に行く。小高い丘の上で、珊瑚石を積み、モルタルで整形された建物の外壁は残っている。奥の草原からはインド洋がはるかに見渡せる。その手前にはマングローブの森。ダウ船がゆったりと、あるいはモーター船がなめらかに、海を行き交う。

「キルワ・キシワニは初めて?」

 わたしはうなずく。

「ザンジバル、モンバサやゲディ遺跡なら行ったことがあるけれど」

「そう。キルワはポルトガルにいちばん早く攻撃を受けたスワヒリ都市のひとつ。ここの壁や柱、よく残っていると思われるかもしれないけれど、大部分が一八世紀に再興したあとのもの」

「壊されたのは――一六世紀?」

「ええ。一五世紀末のアルメイダ、一六世紀初頭のヴァスコ・ダ・ガマの攻撃により、それまでの建物は破壊されてしまった。それまでは、インド洋――インドやペルシア、アラビア、マダガスカルまでカバーする交易都市だった」

「大砲かしら」

「そう。帆船に積載された大砲が主な攻撃手段。破壊し、燃やし、その後略奪し、屈服させる――再建で砲弾はなくなってしまったけれど。同じように破壊されて、そのままジャングルに埋もれてしまった都市が対岸に――マダガスカルにあるよ。そこも発掘したことがある」

「いったい人間は――」

 わたしは遺跡のへりから、海を見下ろして言う。

「どうして繰り返すのかしら。おろかしいことを」

「暴力は連鎖する。古代オリエントでは――ユダヤ人はローマ帝国にイェルサレムを逐われ、世界中にまき散らされた。かれらの一部は南アラビアにたどり着き、そこでユダヤ教徒の王を擁立した。一方で、ビザンツ帝国ではたくさんのシナゴーグが焼かれていた。六世紀、南アラビアの王はキリスト教徒を虐殺する。多くは対岸のエチオピア、アクスム王国とのつながりのつよいひとびとだった」

「ナジュラーンの殉教ね」

「その報復に、キリスト教世界が沸き立った。アクスムは挙兵して、ユダヤ教徒の王を死に追いやった。でも、そのアクスム系の王朝も、六世紀のうちにサーサーン朝ペルシアに滅ぼされる。その翌世紀には、イスラームが興り、サーサーン朝も滅びる。――諸行無常、と仏教では言うけれど、でも、そうしてひとつひとつのことを受け入れるだけでよいのだろうか、と思うことはあるよ」

「受け入れるだけ、ではなく?」

「遺跡の石ころひとつでわかることは、もっと微細なこと。ひとりひとりの人生の詳細はわからなくても、それに触れたひとのことを考えることはできる」

 彼女は遺跡の石壁に触れ、そっと撫でる。

「意味や価値などなくても、かれらひとりひとりはたしかに生きていた。そう言い続ける。わたしやあなたと同じように。ひとりひとりちがう生を。それが世界への問いになり、答えになる。このやりかたでいいのか? こんどはべつのやりかたをすると、具体的に言い続けることができる糧になる。いのちはいちど消えればよみがえらない。でも、たしかに存在していた。二度と繰り返されない生が。それが、過去が過ぎ去らないということ。人間は争い、殺し合う生き物だと言うことは、かれらの死がただの数字や、書物や、墓標だけになるということ。でもわたしはかれらはたしかに生きていたと言いたい。自分とはちがう、未来に生まれて死ぬだれかともちがう、ひとつひとつのいのちだったのだと。だから、ちがうやりかたで生きていけるのだと」

「シュリ――」

 わたしは彼女を見つめる。湿った風が吹き付け、彼女の髪と服を揺さぶる。

 彼女は瞳の水面に空と海の青を映し、ほほえむ。

 わたしは思わず彼女の腕に触れる。リネンの長袖はびくりと震える。

「それは、考古学をやっていて考えたこと? それとも――」

「ドクター・ムリンギも遺跡を見に?」

 突然、背後から男の声がした。木々の下に、長袖の襟付きのシャツにコットンパンツを着た黒人男性がふたり、わたしを見ている。長身と、もうひとりは小柄だ。観光客か漁民しかいない島には不似合いなふたりだ。学会で見覚えのある人間かと思い、わたしはかれらに歩み寄る。

「せっかくキルワに来たから、見ておきたいと思ったんです」

「フスニ・クブワのほうは行きましたか? あちらは一四世紀の遺構が残っていて――」

 かれらはわたしを誘導するように、木の蔭に入っていく。

「ムリンギ!」

 シュリが切迫した声で叫び、駆け寄ってわたしの腕をつかむ。

「えっ」

 男ふたりは舌打ちし、腰のあたりからナイフを取り出す。シュリは地面をすばやくつかみ、砂を目潰しにまき散らしながらわたしを突き飛ばす。

「逃げて!」

「そんな、」

 呆然としている間に男たちはシュリに飛びかかる。彼女は小柄なほうの腕をひねり上げてナイフを落とし、間髪置かずもうひとりの股間を蹴り上げる。絶叫する男。ナイフを拾い上げ、肩をつかもうとしてきた小柄な男を、振り向きざまナイフで薙ぎ払う。血が飛び散る。彼女は両手ほどのおおきさの石を拾い、足のあいだをおさえる大柄な男の頭を容赦なく殴りつける。二度。さらに、胸から血を流す小柄なほうの頭も殴る。いちど。ふたりとも倒れ、動かなくなる。

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