征服されざる千年 冒頭

鹿紙 路

第1話

N大学二〇二X年卒業式送辞

ジョスリン・ムリンギ・ワ・ングギ教授

(開発経済学、開発人類学、歴史人類学)



 うつくしいナイロビの乾季の終わり、希望あふれるみなさまの前でご挨拶する場をいただき感謝申し上げます。

 わたくしも三十年前、みなさまがたと同じこの場所に座り、ナイロビを旅立ちました。向かったさきはロンドンです。このくにを覆う矛盾や不平等、紛争や痛みの解決のため、開発経済学を学ぼうという意思を持っていました。わたしはヨーロッパに行ったのは初めてで、奨学金をもらってはいましたが懐はこころもとなく、英国の豊かさを恐れていました。このくにで教育を受けたみなさまにはおわかりのように、英国には階級があります。目に見えないものではありません。服装や持ち物、話し方、なにより肌のいろで判別ができるものです。わたしは留学生になって英国に入りましたが、金槌で頭を叩かれたような感じでした。母国での勉強は、なんの意味も持ちません。ひとびとからの扱いはひどいものでした。大学では表面上、それはないものとされていましたが、学問という武器をもってしても、侮辱やいのちの危機からは守られません。いま、マイクロアグレッションということばがあり、それがなんだったのか言い表すことができますが、その当時はただただ消え入りたくなり、自分がひどく無価値な存在に思えました。やさしい学友や教員もいましたが、そのあたたかさが届かないほどの孤立を、わたしは感じていました。

 その瞬間を越えて、いまこの場に立っているのは、歴史人類学との出会いのおかげです。学問は宗教ではないので、人間を救うことはできませんが、自分の認識や視野を変えることができます。シラバスを見て、アフリカの歴史についての授業だと思い、その教室によろよろ入っていって、プロジェクターに映されている写真を見て、わたしは泣きました。ボラナのちいさな家の、炉辺の写真です。老人が、氏族に伝わる歴史について話しているところでした。教員はわかい日本人女性で、学部のころからアフリカの村に行っては、ことばもよくわからないまま炉辺でひとびとの話すのを聴いていたというのです。歴史を語る技法に、彼女は興味がありました。わたしたちの土地のほとんどがそうであるように、一世紀前には文字などなかった村で、口から口へと、歴史が伝えられる過程、仕組みを、彼女は解き明かしていきました。

 わたしたちには歴史がある、とわたしは思いました。いいえ、小学校のときから歴史を教わっていました。祖母や父の語る物語も聴いて育ちました。でも、それは、わたしの身の回りだけでなく、このアフリカ全体でずっと、世界で初めて人類が語り始めたときから、続けられてきたことなのです。声は、空中に発せられた瞬間に消えてしまいます。しかし、聴いたひとはそれを覚えていて、また声を発し、つぎの世代へ伝えていくのです。それは広く、ふかいものです。ヨーロッパやアジアで、文字になって残されていった千年、二千年、五千年と同じように。この当たり前のことを、わたしははるばるロンドンまで来てようやく思いいたったのです。

 わたしも歴史を伝えることができる、と思いました。わたしもあの教員に聞き取りをされるような、語り手になることができると。そればかりではありません。わたしも歴史を聞き取ることができる。村々を回って、それぞれでちがう物語を、聴いて、すぐに消えてしまうことを、録音したり書き取ったりすることができる。それらはわたしたちの財産になります。わたしたちは貧乏人ではありません。わたしたちはとてもとても豊かなのです。

 しかし、口頭での歴史の伝承は、せいぜい三世紀ぶんまでと言われています。人間の脳のしくみの問題なのか、それ以前のことは神話になってしまい、人間ひとりひとりの残した足跡とはならないのです。やはり、文字がないことの限界はあります。しかし、だからといって、口伝えの歴史に意味はないのでしょうか? もちろん、そんなことはありません。実証主義の歴史学ではとりこぼしてしまうものが、そこには残されています。主体は、わたしたち自身です。わたしたちがどう考え、どう残したいのか、それだけが問題になります。人間ひとりひとりの人生、すべてが無駄ではないように、わたしたちの思いは、それだけで歴史となるのです。

 わたしたちは歴史を生き、くりかえし言及し、実践します。過去は死んでおらず、幾度も息を吹き込まれては、生きていく力にもなり、また、争いの武器ともなります。ある部族がある部族を絶滅させる、あるいは白人が黒人を奴隷にする、そうしたことも、歴史的経緯とされるものが根拠となってきました。いま掘り返してみれば、じつにくだらない、なんの力もないものです。でもそれはある時代にはつよい力を持っていました。

 わたしたちもそうした歴史を生きているのです。これはいのちの危機に直結する問題です。きょうや明日に関係あることです。どの歴史を生き、どの歴史に息を吹き込むのか、わたしたち自身が毎日問われています。

 学者は問いが大好きです。でも同時に、答えを暫時設定することを強制されています。このアフリカ、明日の食料に困るひとが無数にいるのに殺し合い、原因ウィルスが特定されているのに撲滅できない疫病に苦しむ困難な土地において、歴史はいかほどの意味があるのでしょうか? わたしは暫時答えます。それは杖です。みなさまはそんなものは必要ないと思っているひとが多いでしょう。でも、きょうにでも、明日にでも、けがや病気で必要になる可能性は、だれにでもあります。山を上るという限定的なときにだけ必要なひとも多いことでしょう。そして、数十年後には、たいていのひとが必要になるのです。それまで生きられればですが。いま必要なくとも、杖を持っていきましょう。家に置いておけばよいのです。薪が足りなくなったらそれを燃やすのも手です。また切り出してつくればいい。しかし、だれかを殴るのには、絶対に使わないでください。そう使えと強制されることもありえますが、そうなったら、捨てて逃げてしまいましょう。そうしたやわらかさが、わたしたちには備わっています。

 この大学では、みなさまは知を手に入れました。その知で、杖を切り出し、磨き、使うことができます。しかし、それによってどこへ向かうのか決めるのは、みなさま自身です。ロンドンへ行くことはおすすめしませんが。きびしい現実が待っています。目を覆いたくなるような現実です。でも、目を覆っても、それが消えたりはしません。変えていきましょう。すこしずつ。

 ご卒業おめでとう。また一緒に、この世界で生きていきましょう。




   ナーディヤ 一四九X年



 ナーディヤ。

 あの子がわたしを呼ぶ。

 なあに。

 だれも見てないよ。

 そうね。

 つよい日差しに輝く碧の海。雲のない青空。凪のなかで、舟はただ浮かんでいる。帆はしぼみ、あの子は舵に身を預けてわたしにほほえむ。真っ黒に日焼けし、縮れた髪は短く、こめかみと眉の上を覆う程度で、汗のにじむ肩は太陽に輝いている。引き締まった腕、露わにされたちいさな乳房、腰に巻き付けられた布。投げ出した脚は、注意ぶかく腕木に体重をかけている。

 くりくりしたおおきな杏仁形の目で、彼女はわたしを見る。

 脱いだら。暑いでしょう。

 でも……

 とうぶん風は吹かないよ。

 わたしは自分のからだを見下ろす。絹のカフタンが全身を覆い、ヴェールで髪を覆い、四角い枠のような面を目のまわりに着けている。クルアーン学校からの帰り道、いつものようにあの子の舟でわたしは家に戻る。

 まわりに船影はなく、陸地は遠い。漁は終わっている時間で、横切る可能性があるのは父さまの使っているような商いの船くらいだ。それも、この凪では行きあうことは考えにくい。

 気ままに舟で移動するように見える漁民たちは、その実風と潮に操られ、縛られて生きている。朝陸から海へ吹く風や、大潮の干潮をめがけて舟を出す。だから、この眺望にはいない。いまごろは浜で網を繕ったり、取れた魚を炙って燻製にしたりしているはずだ。でも、クルアーン学校は夕方に終わる。まだ日は明るく、夜釣りにも早い時刻。

 ……脱ぐわ。

 はは、とあの子は笑った。

 わたしは面からとりかかる。頭の後ろの紐をほどき、厚い革でできたそれをはずす。頬が空気に触れ、わたしはおおきく呼吸する。ヴェールを脱ぐ。髪や首筋が息を吹き返す。ふふ、とわたしは笑う。カフタンをめくりあげ、船底に放る。ブラウスとストッキングも脱ぐ。肩紐がついた下着一枚になり、わたしは伸びをする。

 涼しい。

 船首に上半身も預ける。ただ青空だけが、視界に広がる。ちゃぷちゃぷと舟を洗う波の音。ぎし、と音を立てて、彼女が動く。そろそろとこちらに這ってきて、船縁をつかみ、顔を覗かせる。

 もっと早くこうすればよかったのに。

 そうね。でも、こわかったの。

 わたしは起き上がり、彼女に向かい合う。

 自分がだいじにしていたことが、ぜんぶめちゃくちゃになってしまいそうで。

 ……めちゃくちゃになった?

 ううん。ただ、ひとつ扉がひらいただけ。

 そこからなにが見える?

 空と海の、澄み切った青を映して、彼女の瞳が瑞々しく震える。

 ……あなたが見える。

 彼女の頬に片手で触れる。つやつやした黒い肌は湿っていて、空と海の青さが、彼女の肌の輝きになる。

 ナーディヤ……。

 彼女の手が、わたしが彼女に触れている手に重なる。




   イェシ 四九X年



 キリスト教徒ども!

 王はさけぶ。杖を振り回し、きらびやかな外套を翻して。

 肉体の消滅により、汝らの罪をあがなえ!

 わたしは深い穴に突き落とされる。次々に、その穴に同胞が落ちてくる。絶叫し、絶望に顔を歪ませて。穴は深く、駆け上ろうとしても、砂地がずるずるとからだを底へ引き戻す。王の哄笑。兵士たちやユダヤ教徒の老若男女が、目を見開いてわたしたちを見下ろす。その瞳は憎しみで煮えたぎり、このあと起きることを切望している。笑みのようなものを浮かべる者、怒りに震える者、踊り出さんばかりに喜びで腕を広げる者――

 ああ、主よ。

 あなたもこのようなものを見て十字架にかけられたのですか。

 轟音を立てて、車に乗せられた薪が到着する。松明の火が束ねられた薪に移され、それが十分に燃えると、蹴落とされていく。わたしは背後にいたみどりご、子どもたち、女たちをかばい、両手を広げる。炎が頭上に降ってくる。はね落としても、次から次へと。袖に火がつく。わたしは慌ててはたく。その間に、背中に薪が当たり、そこからも燃え始める。熱さ、痛み。煙が立ちこめ、それを吸い込んでせき込む。息が苦しい。主よ。

 ひとびとが炎から逃れようと這い回る。しかし、どこにも逃げ場はない。麻布を燃やし、肉を灼く、髪や髭を灼く猛烈な臭気。イエスさま、マリアさま。泣き叫ぶ声も、煙で途切れがちになる。

 教えに殉じる者として、御許に参ります。

 わたしは両手を高くひろげる。祈りのしぐさ。天のくにはちかい。

 黒ずんだ煙のむこうに、澄んだ穹窿が見える。

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