第193話 セシリア・ドスペリオル



 時は二十数年前の小春。


 ドスペリオル侯爵領都、古都ラベルディンで、セシリア・ドスペリオルは16の誕生日を迎えていた。


「16歳の誕生日、おめでとうセシリア。誕生日プレゼントは決まりましたか?」


 大きなダイニングテーブルに腰掛ける人間は、母であるフレーリアと、兄のランディ、そしてセシリアの3人しかいない。


 テーブルにはドスペリオル地方の伝統的な煮込み料理と、簡素なブレッド、後は砂糖菓子が並べられている。


 使用人も、メイド頭のアンナ、料理長のメサイなど、ごく限られた人間たけで、広大なダイニングはどこかもの寂しい雰囲気を醸し出している。


 いずれも近頃は贅沢な食事を受け付けず、また大勢の人前に出ることを忌諱する様になったセシリアに配慮しているからだ。



 セシリアの父であるバルディは、先の大戦で戦死しており、現在は妻のフレーリアが侯爵位を、当主を示すフォンの名はランディが預かっている。


 コホコホと小さく咳き込んで、だがセシリアはいつになく明るい顔で頷いた。


「ええ、決まりました。どのようなものでもいいというお言葉に、変わりはありませんか?」


 セシリアがいたずらっぽく小首を傾げると、フレーリアとランディは顔を見合わせ、その顔に喜色を浮かべた。


 死する運命に真正面から向き合い、近頃ではすっかり達観した様に振る舞う彼女が、プレゼントをねだるとは思っていなかったからだ。


 実際、前年の誕生日には『考えておきます』と言ったっきり、結局何も要求してこなかった。


「も、勿論だ! この兄が、セシリアが望むなら何でも手に入れてくる! 例えそれがドラゴンの卵でも!」


 まだ年若いランディが鼻息荒く立ち上がってそう言うと、セシリアは口元をすぼめて笑った。


「兄上はドスペリオル家を継ぐ、大切なお立場でしょう。その様に軽々に危険を犯していると、お母様が心配しますよ」


「な、何を言う! 我が身が可愛くて危険から逃げ回る人間に、ドスペリオル家を継ぐ資格などない。可愛い妹の為であれば私は喜んでドラゴンの巣にでも入ろうぞ」


 フレーリアはため息をついた。


「座りなさい、ランディ。セシリアの言う通りです。勇気と無謀は違います。金で手に入るものは、買えばいいのです。それで、セシリアの望む物とは何ですか?」


 セシリアは決意を込めた顔で頷いた。


「わたくしの望み。それは旅に出る事です。生きられてあと1年。このままこの生まれ育ったラベルディンからほとんど出る事もなく、座して死を待ちたく無いのです。お父様が……ドスペリオル家が命懸けで守ってきた、この国を見て回りたい。

 どうかお許しを」


「そ、それは……」


 フレーリアとランディは、このセシリアの望みを聞いて絶句した。


 すでに病はかなりの所まで進行しており、今の体調で旅に出るなど、どう考えても自殺行為だ。


 ランディは苦悶の顔を浮かべ、だが首を横に振った。


「それは……それだけはならん。この家で安静に過ごせば、あと1年は生きられる。兄は1日でも長くセシリアに生きていて欲しいのだ」


「それではすでに死んでいるのと同じです」


 セシリアは真っ直ぐに兄の目を見てそう言った。


「例え1年が半年になろうと、わたくしは最後まで自分の人生を生きていたい。目的を持って、前を向いて生きていたいのです」


 ランディは強い決意を宿した妹の瞳に引き込まれる様に、呆然とした後、目を逸らしやはり首を振った。


「……分かっておくれ、セシリア。

 この1年のうちに治療方法が見つかる可能性もゼロではないのだ。どれだけ可能性が低くとも、この兄は諦められない。セシリアの生を」


 セシリアが罹患している魔破病は不治の病で、治療方法は無いとされる。


 すでに高位の神官による治療や集められる限りの貴重な薬の投与など、ドスペリオル家が尽くせるあらゆる手段を尽くし切っている。


 セシリアは母と兄が用意したあらゆる治療を、時には痛みや副作用の伴う治療を、ただの一言も文句を言う事なく受け続けてきた。


 それでも病の進行は止められず、今に至る。



「わたくしの最後のわがままを、どうかお許しください」


 セシリアは感情を極力抑えた声で再度願いを繰り返した。


「……当主であるあなたが決めなさい、ランディ」


 フレーリアがそう言うと、セシリアは再び兄を見た。


「……お願いいたします、兄上」


 セシリアの目から涙が一筋流れたのを見て、ランディは悲痛に顔を歪めた。



 この気丈な妹が、自分の前で涙を流した。


 それは、9つになる前に病を診断されたその夜に、自分のベッドに潜り込んできて、静かに背中で泣いていた時以来の事だった。


 あの夜、自分はセシリア以上に泣いていた。するとセシリアは、その翌日から泣かなくなった。


 ランディはあの日、無様に泣いてしまい、妹から泣く事すらも奪った痛恨を思い出した。


「…………考える時間をくれないか」


 辛うじて涙を堪え、そう告げたランディは、足速あしばやにダイニングから出た。


 ダイニングから出たランディの目から、堰を切ったように涙が溢れた。



 ◆



 明朝。


 東の空が白み始めた時刻に、裏門からこっそりと家を出たセシリアに、フレーリアが声をかけた。


「旅立つのですね」


「お母様……。どうしてお分かりになったのですか?」


 フレーリアは苦笑して、セシリアに近づいた。


「わたくしはあなたの母ですよ? あなたが考えることは分かります。ランディに、決断を下させたくないのでしょう。あの子はあなたの事が大好きですから。どの様な選択をしても、きっと深く傷つく」


 そう言って、セシリアを強く抱きしめる。


「愛しています、セシリア。強くて優しい子。あなたは私達の誇りです。バルディあの人が生きていても、きっと背中を押すわ」


「……ありがとうございます、お母様。

 兄上に、お別れが出来ない事を謝っておいて下さい」


 フレーリアは笑った。


「良いのですよ、あの子に知らせたらどこまでも付いていって、別れにならないのは目に見えています」


「ふふっ。目に浮かぶようですね。

 ……では、どうかいつまでもご壮健に。行ってまいります!」


 フレーリアは、歩き出した娘の背に、両手の指を緩く絡ませて顔の前に掲げ、少しだけ膝を曲げる古い騎士礼をとった。


「行ってらっしゃい、セシリア。どうか道中ご安全に」



 ◆



「護衛も付けずにどこへ行くつもりですかな、お嬢」


 川船の河岸で渡し船の列に並んでいると、後ろから声をかけられた。


 振り返ると、手槍を背負い、旅装束を整え荷物を抱えたディオが立っていた。


 ディオはセシリアより5つ年上で、ドスペリオル家譜代の家臣の家であるリングアート家の人間だ。

 将来はセシリアの護衛となるべく、幼き頃から厳しく鍛え上げられてきた。


「ディオ? なぜここに? ……それは、私の荷物ですか?」


 ディオは頷いた。


「昨晩遅くにランディ様がやってこられましてな。恐らくセシリアは明朝に出立するつもりだろうと。決意が揺らぐことは無いだろうと。あの子は箱入り娘で世間の事を何も知らないから、とても1人旅など出来ない、どうかセシリアのそばに付いていてくれないかと頼まれましてな」



 セシリアは心底から驚いた。


 あの兄がまさか……


 だが――


「おっと、その様な顔をしてもダメです。ろくに旅の荷物も待たず、乗船券も買わずに列に並んでいる高貴な娘が供もつけずに一人旅など、有象無象の悪人どもがひっきりなしに近寄ってきて、とてもまともに旅などできませんよ? 世の中腕っぷしだけでは解決できない事も沢山あります。『本来ならば百の供を付けたいが、あの子はそれを決して受け入れないだろう』という、ランディ様のお気持ちをどうかお汲み下さい」


「……死する運命のわたくしについて来ても、あなたのためになりません。兄上には、私が強く断ったと――」


 セシリアが断ろうとするとディオは怒気とも取れる気配を立ち上らせた。


「元よりこのディオ・リングアート……お嬢が死する日に後を追うつもりでした。

 ですが、昨夜ランディ様より話を伺い、思いとどまったのです。お嬢がどの様に自分の人生を生きたのかを見届けたい。そして……セシリア・ドスペリオルが、どの様に生き抜いたのかを、きっとランディ様、フレーリア様にお伝えいたします。

 お嬢の旅の物語は、光を失い悲しみに暮れるドスペリオル家に、きっと、ほんの少しだけ慰みをもたらす」


「…………分かりました。あなたの忠義に感謝を。わたくしが天寿を終えたあと、あなたは自分の人生を生きる事。それが条件です。

 …………兄は、きっとあそこですね」


 セシリアは街の中央に屹立するラベルディンの塔に向かって、笑顔で手を振った。


 先祖の墓であり、様々な伝承が秘されているドスペリオル家にとって特別な塔。


 この街がどちらの方向にも一望できる。



 セシリアには、見えなくても分かった。


 遠眼鏡を覗き、こちらを見ている兄が、笑いながら泣いている。

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