第99話 帆船(3)
再びやられた仲間の回りを旋回しているオジロシャチを見て、俺は、まだ諦める気はないな、と感じた。
むしろ仲間がやられたことに対する、憎悪のようなものを感じる。
「ダン!魔道具のスイッチを入れよう」
どうせ怒らせているのなら、不愉快な音を出して、少しでも冷静さを失わせた方がやりやすい。
音で会話しているとすると、うまくいけば仲間とのコミュニケーションを崩せるかもしれない。
この俺の狙いは当たり、まだ若い個体と思われる6mほどのオジロシャチが、真っすぐ後部デッキに立つ俺の方へ向かって突っ込んできた。
背鰭を出して近づいてくるなど、冷静さを欠いている証拠だ。
十分に引き付け、海面に頭が浮上したところで、俺は鉄矢を3連射して、その個体も仕留めた。
残り3匹。
それからオジロシャチは、体当たりをするでもなく、といって諦めた様子もなく、俺たちから一定の距離を取って追跡し始めた。
時々一番大きな個体から、嫌がらせのように水魔法による大量の水が噴射されてくるが、どうやら連発はできないらしく、カッツォたちが排水をしていれば船足は維持できる。
俺はダンに聞いてみた。
「…何が狙いだろう…単なる嫌がらせか?」
「…諦めた、とは考えにくいな。
勝負をかけるタイミングを計っているのか、あるいはこの先に、あいつらが有利になる何かが―」
ダンが言い切る前に、その答えは分かった。
先ほどまでは1頭しかいなかった10m近い水魔法持ちの個体が、両舷の前後に新たに3頭浮上してきて、4方向から一斉に水魔法を射出してきたからだ。
……これは本格的にやばいな…
流石にこのペースで水を浴び続けてたら、排水が間に合わず喫水が下がり船足が落ちる。
そしてさらに問題なのは、両舷側から水が来ることで、帆の操作に重大な支障が出ていることだ。
縦帆船は、進路の切り返しの瞬間、風を帆から抜くので、どうしても船足が落ちる。
水魔法を当てられて、
やつらは勝ち誇るかのように、属性なしの個体が離れた場所で次々にジャンプし始めた。
俺は、マックアゲートの矢で打ち抜こうかと思ったが、思いとどまった。
デカい奴以外もわんさか連れてきたらしく、残り17頭もいる。
のこり4本しかない矢で小物の数を減らしても、焼け石に水だし、時間が惜しい。
俺は
「一か八か、風魔法を使うぞ!
合わせろ!」
当然ながら、俺の風魔法を帆に当てて船を加速する、という手は念頭にあった。
だがすでに風は斜め後方から、俺が魔力循環できる限界の、風速15m近く吹いている。時速に換算するとおよそ54kmだ。
これ以上強い風を生み出しても、体外に放出した魔力を体内に循環できない。
限界まで魔力を取り込みながら、例えば風速30mまで加速したら、俺の魔力は3分と持たず枯渇するだろう。
だがこのままでは間違いなく詰む。
今は何としてでも包囲を突破して、何とか大陸に座礁させるなどの、打開策を模索する必要がある。
俺はそう決断し、風魔法を帆の内側へ向かって浴びせかけた。
◆
瞬間、船は俺の想像とは全く異なる動きをした。
風を受けて満帆に膨らんでいた帆は、途端にバタバタとはためいて動きを乱した。
急激に船足が落ちる。
ダンが即座にラインを引いて船を切り返し、たまらず抗議の声を上げた。
「おい!」
「考える!」
……加速するどころか、まさか失速するとはな。
ヨットが進む原理って何だったか…
確か、いつかどこかで見た覚えがあるが、思い出せない。
前世の俺は、何であんなに頭が悪かったんだ…
今世の事なら絶対思い出せるのに!
背中に嫌な汗が伝う。
だが、それなりに実践を積んできたおかげで、頭は冴えている。
そう言えば、これだけの危機に、弓を撃つ時に指先が震える事も無かったな。
グリテススネークの時は、あれだけ震えていたのに。
必死に思考を巡らせながらも、頭の片隅でそんな事を考えるスペースがある自分に少し驚く。
俺は風の流れを感じるために、帆を吹き抜けていく風に溶けるくらいの気持ちで、吹いている風と同化するよう、風速15mほどで魔力を循環してみた。
それでやっと思い出した。
「そうか!ベルヌーイの定理!」
「え?!なんだって?!」
ダンが聞き返してくるが、答えている暇はない。
俺は魔力循環を使って、帆の内側を通る風を、ゆっくりと
◆
途端に船がグンと加速した。
さらにほんのわずかずつ風速を調節していく。
船は面白いほどグングンと加速していった。
ダンが叫んだ。
「ちょっと待てレン!
ヒールがきつすぎる!転覆するぞ!
カッツォ!
デュアライゼを全部
ヒールとは、船が風下側に向かって傾くことだ。
エンジンのある船は、基本的には船体が真っすぐの状態で進むが、縦帆船は常に帆が引かれている方向に傾きながら進む。
ダンの指示は、斜め前に引かれる力が強すぎて、横の復元力が限界を超えそうだと言う意味だ。
カッツォたちは、急いで船体の浮き上がった方に移動して、船をなるべく真っすぐにするように船の重心を動かした。
それを見て俺は、さらに少し、帆の内側を通る風を弱めて、船を加速した。
◆
ベルヌーイの定理。
それは飛行機が空を飛ぶ理由であり、ヨットが風上に向かって進める理由でもある。
飛行機の場合、主翼の上部を通過する風が、ヨットの場合だと帆の外側の、丸みを帯びている部分を通過する風が、その逆側よりも速くなる。
すると何が起きるかというと、スピードの速い方の気圧が低下し、そちら側に引っ張ろうとする力、すなわち揚力が発生する。
気圧差により発生する揚力は、あの馬鹿でかい旅客機が空に浮き上がるように、風に押される力などよりも強力だ。
その揚力の一部をうまく活用することにより、ヨットは風上に向かっても走れる、という訳だ。
そこで、今回俺は、帆の内側を通る風を減速することで、外側との速度差を広げ、発生する揚力を高めた。
重要なのは、この『減速』の意味合いだ。
エネルギー保存則であるベルヌーイの定理は、流体に外部からのエネルギーが働くと成り立たない。
魔法による風の減速が、運動エネルギーを圧力(密度)へ転換する事を意味するのか、それとも外部エネルギーによるブレーキなのかは、やってみなければ分からなかった。
魔力変換数理学の魔力と運動の基本法則からしても、いけるのでは?と考えたが、確信は無かった。
俺がやったのは単なる減速だが、減速するとその分、帆の外側を通る風はなぜか加速された。
これ以上は色々と検証してみないと、詳しい事はわからない。
ちなみに、最初内側の風を加速した際に、帆がバタバタとはためいて失速したのは、その逆のことをしたせいだろう。
そしてこの手法の、今の状況に対する大きなアドバンテージ。
それは魔力を無理なく循環できるので、同じような風が吹いている限り、半永久的にこの加速状態で走れる、という事だ。
船は今時速30キロほどで走っている。
オジロシャチの巡航速度は、15キロ程なので、今は結構頑張って泳いでいる状態だろう。
その証拠に、水魔法による攻撃が止んでいる。
このまま我慢比べになっても、全く負ける気がしない。
すると、ダンがコクピットから、不安そうな顔で声をかけてきた。
「おい、レン!
そろそろ何処かで
それ、一度止めてももう一回できるんだよな…?
やれるよな!?」
俺は、会心のどや顔で、ダンにむかって親指を立てた。
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