第97話 帆船(1)


「錨を上げろ〜!

 帆を張れ〜!!」



 明朝。


 朝日が登ると同時に、俺は声を張り上げた。



「お、レン!

 お前まさか帆船動かした事あるのか?」



 ダンが見ていて恥ずかしくなるほどの、満開の笑顔で近づいてきた。


 久々に船に乗れるのが嬉しいのだろう。


 いつもはどこか大人びていて、一歩引いたところからクールに皆を見ているダンだが、今日は年相応の子供のような顔をしていて、ジャガイモ感が半端ない。



「もちろん全くの素人だ。

 ただ言ってみたかっただけだ」



 俺が胸を張ってそう宣言したら、ダンはガックリと肩を落として、『皆んなが混乱するから、海に出てからはやるなよ…』なんて言ってきたが、このセリフ以外は何も知らないから、やりたくてもやれない。



 俺たちが今回出す船は、ダンの生家である凪風商会が、ダンが12歳になって、進学するタイミングで伯爵家に進呈しようと密かに建造されていた、凪風商会渾身の帆船だ。


 もっとも、ダンが王立学園に進学を果たして、お蔵入りになっていたそうだが。



 この船は、某有名RPGで中盤に手に入れるような、進行方向後ろからの順風を受けることを基本にしている横帆船おうはんせんではなく、風に向かって切り上がることのできる縦帆船じゅうはんせんだ。


 ちょっと大きめのヨットを想像すればいいだろう。



 ちなみに、軍船は、そのほとんどが、一応補助的な帆を備えてはいるものの、基本的には船の横から多数飛び出したオールを多人数で漕いで進む、いわゆるガレー船とのことだ。



 海戦域として想定される沿岸域や内陸の大河では、風向風速が安定しにくく、漕ぎ手のスタミナに限度は有るものの、帆船に比べて加速・減速・旋回などの運動能力に優れているらしい。


 …そんな大人数の身体強化魔法でゴリ押しするだけのスタイルは、ロマンのかけらもないな。


 ちなみに、大貴族が保有する船には、動力機関が備わっているものもちらほら出てきている様だが、速度が出ないので軍船にはまだ採用されていないらしい。



 魔物除けの魔道具は昨夜のうちにこの船に設置されている。


 俺たちは、朝の冷んやりと心地いい風を浴びながら、凪風商会のドック横の港から船出した。



 ◆




 港湾から海へと出ると、風は向かい風だった。



 縦帆船は向かい風でも前に進むことができるが、真正面から吹く逆風に向かって走れるわけではない。



 目的地が風向(風が吹いてくる方向)と一致している場合は、風向から左右45度ほどの角度をつけてジグザグに進んでいくことになる。


 船の性能にもよるが、これ以上角度が小さくなるといかに縦帆船でも進まないそうだ。



 ダンは船の後方に設えられた運転席コックピットに立ち、たった一人でこの20m近い帆船を操船している。


 それを見て、ダンの隣に立ち操船のサポートをしようとしていたカッツォが呆れ返って言った。


「一応運転席コックピットにすべてのラインを引き込んでいるから、操舵手が一人シングルハンダ―でも操船できる設計にはなっているが…

 あの糞重たいメインセイルのラインを、片手で楽々巻き上げるとは、信じられん。

 しかも初めての船で、この風の中で帆を全部出して、こうも易々と捌くとは、操船センスの方も相変わらず尋常じゃないな」



 メインセイルは船で一番大きな主帆の事で、ラインとは、帆の上げ下げや、風の当たる向きをコントロールするためのロープの事だ。


 このラインで帆を操作し、併せてティラーと呼ばれる舵棒を切ることで、船の速度や方向をコントロールするようだ。



 ダンは、魔力器官が発現する8歳の頃には小さな帆船を操縦して遊んでいたらしい。



 ちなみに、カッツォの他にも、クルーとして凪風商会の社員が乗船している。

 造船が正業ではあるが、船乗りや漁師上がりの社員も多く、伯爵家への手前、ダンが気兼ねなくデュアライゼ漁に勤しむには、外部の人員をいれない方がいいと判断したとのことだ。



「大したことじゃないよ、カッツォ。

 王立学園には、もっととんでもない化け物がいるしな」


 そういって、ダンは俺に笑いかけた。


 俺は、王立学園にも籍を置くダンの学友だということを、結局ミモザ達に話した。


 たまたま王都で知り合った探索者が、ダンを伯爵邸から連れ出して、しかも貴重な魔物除けの魔道具を借りてきた、というのは流石に無理がある。


 変に想像を巡らされて噂になるよりも、認めるところは認めて、その上でしっかり口止めした方が上策だと判断したからだ。


 ミモザとカッツォは少なくとも他言しないだろうと踏んでいる。



「楽しそうだな、ダン!

 俺もやってみたい!

 代わってくれ!」


 自在に船を操って、風を切ってぐんぐん進む帆船を操作するダンはめちゃくちゃ楽しそうで、且つかっこよかった。


 俺はたまらず操船の交代を要求した。



「お!興味あるのか?

 じゃあ基本的なことを教えるから、こっちこいよ」



 その後俺はダンから縦帆船の基本操作とポイントなどを一通り教わり、操舵手を交代した。



 ◆



「スターボード・タック!」


 ダンは、舳先から突き出ている棒の上に立って、手信号を交えながら、俺に操船の指示を出してくる。


「スターボード!

 タッキング!」



 俺は進路をポートサイド、つまり風向から船首を右側にずらした方向から、逆のスターボードサイドに向けるべく舵棒ティラーをゆっくりと切った。


 この風向に向かって行う回頭を、タッキングという。



 進行方向が風向に対して右45度から左45度へと変わると、当然ながら帆に風があたる向きが逆になる。


 緩められ、風をいっぱいに孕んで膨らんでいる主帆メインセイルが、転進の途中で暴れない様に、マストを軸に時計回りに帆けたが回転するのに合わせて、ラインを素早く引き込んで、帆を引き締める。


「クローズホールド!」


 ダンはこの船で、風に向かって切り上がることが出来るギリギリの角度で、船の回頭を止めるように指示した。


 この角度で切り上がる事を、クローズホールドと言う。



「これだけ波風で上下左右に揺られる船の上で、よくあんなところに立っていられるな…」


 俺は呆れたように呟いた。


 こうやって、小さい頃からバランス感覚を鍛えていたのか…


 ダンの異常なまでのバランス感覚の秘密が分かったな…



 ダンのバランス感覚の良さは尋常じゃない。


 王立学園での実技授業に、高い場所に組まれた細い木やロープ、池に配置された遊動する石などの特殊な足場を進む訓練がある。


 難易度の高いアスレチックの様なものだ。


 その授業でのダンの踏破スピードは、1人だけ桁違いに早く、まさに独壇場だ。


「あそこに立ってると風や波の動きがよく見えるってんで、9歳になる頃にはもうやってたな。

 いくら危ないから止めろって言っても、『大丈夫』って言い張ってな。

 実際、操船を誤って船がいきなり傾いても全然落ちないし、最後はこっちが諦めた。

 ま、俺に言わせればお前も十分やべえけどな。

 一回聞いただけで普通に操船しやがって…どんな頭の構造しているんだ?」



 カッツォは顔を引き攣らせて俺に聞いてきたが、これは驚くほどのことではない。


「俺はダンの指示通り操船しているだけだからな。

 この程度の手順、あの学校のクラスメイトなら、まず間違いなく全員が1発で覚えて実践できる。

 悔しいが、先程ダンが見せた、この場所から風と波を見切りながらしていた細やかなラインワークとは、やっている事の次元が違う」



 自分でラインと舵を持って、その奥深さはすぐに理解した。


 実際、同じような風が吹いているのに、ダンが操船している時と比べて船脚は8割ほどの速度に落ちている。


 その2割の差は、容易には埋まらないだろう。



「ど素人にあっさり操船を任すから、何考えてるんだとハラハラしたが…

 王立学園は化け物の巣窟だと言われる理由が分かったよ…」


 カッツォはそう言って頭を振り、続けてこんな事を言った。


「…ダンは小さな頃から何をやらせても出来が良くてなぁ…

 大人に混じるとイキイキとしているんだが、同い年くらいの子供に混じるとどこか浮いていてな。

 そつなく合わせてはいるんだが、その背中が、こっちから見るとどうにも寂しげでなぁ…

 その上堅苦しい貴族の世界なんかに引っ張られて、俺はダンが可哀想で仕方がなかった。

 …だがお前と屈託なく対等に話しているのを見て、考えが変わったよ。

 ダンは、やっと自分が本気でぶつかり合える友達と出会って、自分が生きる場所を見つけたんだな…

 ありがとうな、レン。

 あいつはやっと、孤独から抜け出した」



 …まぁ言わんとしている事はわかる。


 この世界は魔法もある分、余計に個々人の能力差が大きく、そしてそれは、持つものと持たないものどちらにとっても残酷だ。


 俺も幼年学校では浮いていたし、あの学校に通うものは、みな大なり小なり同じような経験があるに違いない。


 ライオが『才能ある学友と切磋琢磨して、己を高めるために学園ここにいる』、なんて言っていたが、あいつなどその孤独の最たるものだろう。


 ライオの、あのニヤリと笑う不敵な口元とチグハグな、尻尾を振りまくっている子犬のような瞳を見ると、多少うざったくても邪険にする気が失せる…


 これは、姉上が俺を異常なほど可愛がる理由の一つでもあるだろう。


 地元では俺ですら浮いていたからな…

 あの天才としか言いようの無い姉上は、さぞかし馴染めなかった事だろう。


 近頃はフーリ先輩やら、対等に話せる人間が増えて、楽しそうなのは結構な事だ。


 このまま俺の存在感が、消滅してくれる事を祈るばかりだ。



 そんな他愛もない話をしながら、しばらくタッキングとクローズホールドを繰り返しながら進んでいると、ダンがコクピットに戻ってきた。



「あの島と大陸の間がコリーダ海峡だ。

 帆を畳んで船足を落とすぞ」



 ダンは流れるような手順で帆を畳み、魔物よけの魔道具を停止した。


 今広がっているのは、小さな補助帆と、スパンカーという船が風で流されるのを抑制する船尾の帆だけだ。



『クァークァー』という、シーファルコンの鳴き声を、索敵魔法が耳に捉えていた。



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