第92話 イチョウの刺身


 絶対にこの店で刺身を食うと心に決めた俺は、はっきりと宣言した。


「断る!

 俺は何があってもここで、大将が捌いた刺身を食う。

 何があってもな!」


 俺が目に力を込めていうと、大将は少し怯んだ。


「何だってんだ、妙な野郎だな…

 まさか、あの馬鹿どもの回しもんか?

 いや、あいつらもおめぇみてぇな子供を使いに出す理由もねぇだろうが…

 とにかく俺ぁもう商売をやる気はねぇんだ!

 今日はもう店終いだから、出て行きやがれ!」



「断る!

 俺は何となく店構えが気に入って、ふらっと店に入ったんだ。

 そっちの都合なんて知るか!

 商売をやる気がないだと?

 この、チリ1つ落ちてない店内で、年季は入っているが、ピカピカに磨き上げられたこのカウンターでか?

 俺が店に入った時、背筋をまっすぐ伸ばして、入口を見ていた大将は、この店に誇りを持っていた。

 何があってもこの店を守ると決めてるんだろう?

 下手な嘘をついてるのはどっちだ……

 しのごの言わずにさっさと刺身を切れ!」


「何でおめぇが断るんだ!

 こっちはおめぇの為を思って言ってんだ!」


「俺の心配など不要だ!

 俺の道を邪魔する奴は、誰であろうと叩き潰す!」



 尚も俺が大将と睨み合っていると、奥からおかみさんらしき人が出てきた。


 浅黒い肌に艶のある黒髪。

 そして、ベアレンツ群島国のものだろうか、和装に近い服を着ている。


 店の奥から人の気配は感じていた。


「妙な客が来てるみたいだね…

 おや?

 ぷっ。

 中々気合の入った客が来たと思って起きて来たら、ホントに子供じゃないか。

 でも…いい目をしてるねぇ。

 あんた、切っておやりよ」



「……寝てろ、クロエ。

 また夜潜るんだろう」


「そうはいかないよ。

 この機を逃したら、次あんたが包丁を振るうのを見られるのは、いつになるか分からないからね。

 ただし…」


 そう言っておかみさんは、俺を真っ直ぐに見据えて言った。


「この『銀銀杏ぎんいちょう』は、常連も一見も、値引きも割増しも無しできっちり決まったお代をいただく事を誇りにしてる。

 うちのお代を払えるっていうなら、あんたは客さ」


 俺は頷いた。


「当然だ。

 予算を言ってくれ」


「そうだねぇ。

 今手に入る素材は、この人が近場で釣ってくる地魚と、私が潜って取ってくる貝くらいだからね。

 だが、この人の包丁さばきに惚れた私が、技の安売りはけしてさせない。

 食事のみで130リアル。

 探索者なんだろう?

 酒を飲むなら200リアルだ。

 ただ同然で仕入れた素材に、それだけの金を払う気はあるかい?」



 200リアルだと?!



 …やす…



 ◆



 俺が探索者となった後、Gランクで初めてガラ出しの仕事を受けた時、確か日給は150リアルの契約だった。


 それでもあまり割の良い仕事とは言えないらしく、人手が集まり難く困っていると現場監督が言っていたはずだ。


 と言う事は、王都であれば、その辺りのGクラス探索者でも奮発すれば手が届く値段という事だ。



 いや、130リアルといえば、日本円換算でおよそ1万5千円の感覚だ。


 王都のアホみたいに高い物価に慣れているから、安く感じるが、仕入れが釣りタダで、食事のみでこの価格は、それなりに取っているともいえるか。


 近頃、Bランクなんかに昇格して、オマケに騎士団では時給1000リアルなんて貰っているから、金銭感覚がおかしな事になっているな。



 …俺は別に贅沢が嫌いなわけではない。


 だが、贅沢というのは普段の生活に対して、相対的に恵まれているかどうか、という個人の感覚の話だ。


 どんな贅沢も、日常になってしまえばそれは本人にとっては普通の事となる。


 そうなると、感動を生むのにより大きな贅沢が必要となる。


 今生では地位や名誉、財産には拘らないと決めているのに、水準の高くなった『普通』を維持しようと、収入を気にするようになれば、自由気ままに生きる事など出来なくなる。



 ……先ほどはつい安いなどと考えてしまったが、俺がこの世界で勝手気ままに生きるために、自分の中の感覚をインフレさせるべきではない。



 俺はそんなことを考えながら、おかみさんに告げた。



「職人の技術に相応の対価を払うのは当然だし、価値をいくらに設定するかも自由だ。

 もっとも、その妥当性は客が決める。

 適正であれば、客は増えるし店も儲かる。

 そうでなければー

 淘汰されるだけの事だ。

 メニューは大将に任せる。

 酒はいらない」



 大将は、ガランとした店にチラリと目をやり、唇を噛んだ。


「ちっ、言ってくれるじゃねえか。

 そこまで言われたら仕方がねぇ。

 7代目イチョウの仕事を見せてやる」


 そう吐き捨てた大将は、目をぎらつかせた。


 仕方なさそうに包丁を握ったその口元には、僅かに笑みを浮かべている様にも見えた。



 ◆



「確か、刺身が食いてぇんだったな」



 今朝釣ってきたばかりなのだろう、氷水の張られた桶から、次々に丸のままの魚を取り出して、あっという間に柵にしていく。


 この世界には珍しいオープンキッチンなので、見事な手捌きがカウンター越しによく見える。


 ちなみに、俺の眼前には箸がセットされている。

 この辺りは箸が使われる文化らしい。



「…それ、もしかして、黒虎鉄の包丁か?」


 俺は大将が握る漆黒の包丁を見て聞いてみた。



「ふん。

 宝の持ち腐れだと言いたいのか?

 確かにこんな下魚を切るのには過ぎた品だ。

 だが俺はこいつじゃなければ仕事ができねえ。

 俺の分身みてぇなもんだ。

 あいよ、みやこあじの造りだ」


 目の前に出てきたのは、美しいアジのお造りだ。


 皿が透けて見えるほど薄く、飾り切りに切られたウリの上に、開ききる直前の薔薇の花びらの様に盛られている。


 添えられた小皿には、粉状の真っ白な塩が添えられている。



「宝の持ち腐れなどとは思わない。

 刺身は包丁の切れ味が命だと言うからな。

 この一息に引き切られた見事な断面はともかく、顔が映り込みそうなほど綺麗に残された銀の薄皮は、普通の包丁じゃ無理だろう?

 魚は、皮目の脂が1番美味い」


 俺はそう言って、塩をつけて一口食べた。


 美味い…


 だがそれ以上に懐かしい。



「ほーう。

 少しは分かってやがんな。

 ……何泣いてんだおめぇ」


「すまない。

 少し故郷を思い出していた。

 もう一度このレベルの刺身が食えるとは思ってなかったんでな。

 次を頼む」


「ちっ。

 いやにませた子供だと思っていたが、歳の割に苦労してそうだな、お前も。

 どうせ他に客なんてこねぇ。

 今日はネタがなくなるまで腹一杯食って、全部吐き出していけや」


 次に出されたものも見事な品だった。


 下処理して臭みが取られたタラコの様な魚卵を酒で伸ばして、小さな大葉に塗ったものを、観音開きに開かれたイワシを僅かに炙ったもので挟み込んでいる。


 俺はたまらず酒を頼んだ。



 その後も、カリカリに揚げられ塩胡椒された骨煎餅などで箸を休めつつ、タイのような白身やイカのお造り、塩じめ、蒸し鮑など日本の一流料亭を思い起こさせる大将の仕事に舌鼓を打った。



 ◆



「素晴らしい仕事だった。

 俺はこの春から王都で探索者をやっているが、王都で食べた、どんな魚料理よりも、大将の技は見事だった。

 掛け値無しで大満足だ。

 厳つい顔からは想像もできない、実に繊細な仕事をするな!」


 大将はニカッと笑い、『厳ついは余計だ』といった。


 俺たち3人は、お互いの顔を見渡して笑った。


「ふふっ。

 満足いただけて何よりだよ。

 見ていて気持ちのいい食べっぷりだったね。

 まだ暫くこの街にいるのかい?

 碌な素材が無いけど、また食べにおいで」



「あぁ、そうさせてもらおう。

 おっと、自己紹介が遅れたな。

 俺は探索者の『レン』だ。

 さて…

 何で食材が手に入らないんだ?

 お決まりのパターンとしては、お代官様と結託した越後屋が、くだらない理由でこの店を目障りに思っており、何かと圧力をかけて店の経営の邪魔をしている、といった展開が考えられるが…」



 俺のテンプレを聞いて、夫婦は顔を顰めた。



「越後屋?

 それはよくわかんねぇが、ま、大体おめぇの想像の通りだ。

 この街にはもともと造船を生業にしている、凪風商会っつう古い商会があるんだが、当代が中々やり手でな。

 もともと港町の命とも言える、造船と修理ドックを握ってやがるから、そこそこ力の強い商会なんだが、当代になってから商売の手を貿易やら飲食にまで広げてやがってなぁ。

 うちの店も傘下に入れたいらしく、裏で仕入れや客入りに手を回して、店が立ち行かなくしてやがるのさ」



 何と捻りのない…


 俺はため息をついた。



「なるほどな。

 街の市長にもそれなりに旨味があって、見て見ぬ振りか、下手をすれば結託している、と。

 それで、俺が店の外に出た途端に、待ち構えている3人組が、この店には2度と近づくな、なんて脅しをかけてくると言うわけか」


 夫婦が驚いた様に目を見開いた。


「探索者だと言っただろう。

 索敵防止魔道具も何も無い食堂なんて、酒を飲んでたって嫌でも外の気配が耳に入る。

『嬢』と呼ばれている女が1人。

 造船所の社員ぽいガチムチが1人、用心棒っぽい探索者が1人だ。探索者はショートソードを2本刺している」



「……探索者の連中は何人も客で見てきたが、そんな耳がいいなんて話は聞いたことがねぇぞ?

 …その女が、当代のミモザだ。

 ガタイのいいのは番頭のカッツォ。

 もう1人は、この辺の探索者じゃ一際腕が立つって話の『双剣のジュレン』だな。

 だが…ミモザがわざわざ右腕のカッツォの野郎を連れて来てやがるとは、面倒な用件なのは間違いねぇ。

 おめぇは勝手口からさっさと逃げろ。

 後は俺がうまく誤魔化しとく」


「あぁそれには及ばない。

 なぜならー」


 ガラリと戸が開けられた。


「もう今入ってくるところだからだ」

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