第5話 その恋の名は――ゴッドパンチ

 三日前と同じような夕暮れ。


 再度、僕は全速力でダッシュをしていた。


 今から何を伝えるべきか……そもそも、一度は振られた身だ。負け犬みたいな顔をして、好きな子の前に出たとしても、憐れみを乞うぐらいしか出来ないんじゃないか……


 僕はふと、超空手部の道場へと続く渡り廊下のところで足を止めた。


 本当にいいのだろうか……


 このまま前に進んで大丈夫なのか……


 だって、涼果すももさんは鳳会長のことが好き。今さらその事実を覆すことなんか出来やしない。


 どれほど強引に言い寄ったとしても。また、幾千の想いを伝えとしても。それに加えて、たとえ僕が鳳会長に勝ったという事実があったとしても――


 結局のところ、僕は振られに行くだけなのだ。三日前と同じく。いや、あのときよりも、もっと、きっぱりと。この気持ちを断つ為だけに。


 そう。これから僕はいわゆる恋の断捨離をする目的で、最愛の人に会いに行くわけだ。


 この胸の中に溢れる言葉なんてもう必要はない。自分勝手な想いなんて迷惑なだけだから、かえってそんなものは今さら届けちゃいけない。


 たとえば、鳳会長が金剛先輩の心を動かさなかったように。


 あるいは、金剛先輩の告白が僕にさっぱり刺さらなかったように。


 好きでもない人の想いはきっとゴミやノイズでしかない。だからこそ、僕はすももさんに伝えるべきなんだ――ただの無味乾燥な『好き』という二文字だけを。


 ……

 …………

 ……………………


 ……そのときだ。


 不思議と、ドクンっ、と。


 僕の心音がわずかに高鳴った。


 果たして本当に……届いていなかった……のだろうか?


 それは違うんじゃないか? それこそ僕の勝手な思い込みなんじゃないか?


 僕は拳をギュッと握りしめた。そして、金剛先輩との戦いで習ったように、それをスッと、真っ直ぐに突き出してみる。


「ゴッドパンチ」


 直後、苦笑を浮かべるしかなかった。


 ちくしょう。金剛先輩め。僕にこんな熱い想いを刻みつけやがって……


 再度、僕はゆっくりと歩を進めた。


 高揚というよりは、どこか達観したような気持ちだった。


 そう。魔法の言葉――ゴッドパンチ。


 なぜだろうか。不思議と力が湧いてきたのだ。鳳会長の最期の笑みと、金剛先輩の末期の台詞が、ぽんと僕の背中を押してくれた。


 そして、超空手部の道場脇まで来てみたら、肝心の涼果すももさんはベンチの背にもたれて気持ち良さそうにすやすやと眠っていた。


「ねえ、すももさん。起きて」


 ぺしぺし、と紅い頬を軽く……


「ん、んん?」

「大丈夫、すももさん? どこか気分とか悪くない?」


 すももさんは一瞬だけきょとんとした。


 それから、すぐに驚きの表情を浮かべた。まるで僕がここにいるのが信じられないといったふうに。さながら宇宙人や幽霊でも発見したかのように目を丸くしてる。


「目覚めの気分はどうだい?」

「わたし……どうしてここに?」


 僕はわざと首を横に振ってみせた。


 色々と説明するのが面倒だった上に、屋上で鳳会長と一緒になって僕を嵌めたことについてはもう怒っていないよ、と伝えたかったから。


「ねえ、すももさん。聞いてほしいんだ。僕は君のことが――」


 好き。


 そう。そのたった二文字が……


 やはり、言えなかった。今も言葉が口からいて出てくれない。


 結局、そういうことか……僕は何も変わっていないし……状況とて何一つとして打開することが出来やしない……


 胸が苦しい……


 すももさんの視線も痛い……


 前に進まなきゃ。せめて想いを断ちきる為にも。


 何とか……しなきゃ……


 でも……結局、出てきたのは僕の頬を流れる一粒の涙だけだった。その冷たさが下顎を伝って、地に落ちようかといったときだ。


「ごめんね。荒野くん」


 すももさんが急に僕の腰から拳銃を抜き取ったのだ。


「やっぱり……すももさんは鳳会長のことを?」


 僕がそう尋ねると、すももさんはギュっと口もとを引き締めた。


 僕はゆっくりと目を閉じた。こうなったらすももさんに撃たれるのも本望かもしれない。というか、僕にはもう、そう思い込むしか他になかった。


 でも、そのくせ……なぜだか、ふいに鳳会長や金剛先輩の笑みがまた瞼の裏に浮かんできた――愚直なまでに自分の想いにストレートで、失神してまで笑ってみせた鳳会長。それに、思いのたけを全てぶつけて、血の涙を流し、漢ぶりのいい笑顔を見せつけてくれた金剛先輩。


 どうして、あの二人は自分の想いに対してあれだけ強くいられたんだろうか?


 どうして、そこまで自分をしっかりと信じ切れたんだろうか?


 もし、大切な言葉や想いが好きな人のそばを素通りして行ってしまったら、それこそ全てを失ってしまうかもしれないというのに……


 直後、冷たい銃口が僕の額にぴたりとついた。


 僕たち二人の距離はわずかに五十センチほどもなかったはずだ。


 授業で教科書を忘れたとき以外に、こんなにもすももさんが僕に近づいてくれたことがこれまであっただろうか?


 もし、このまますももさんがずっと遠くに離れていってしまうのならば――嫌だ。そんなのはやっぱり嫌だ。


 せめて、ぶつけてみたい。この想いを全部、ゴッドパンチに乗せて。


 そう。だからこそ、だ――


「好きだ」

「……え?」

「僕は……すももさんのことが好きだ」


 まるで堰を切ったかのように。言葉と感情が濁流となって一気呵成に。


「子供の頃からすももさんのことだけを見てきた。伝えたいと思った言葉を幾つもノートに書き留めてきた。いつか伝えられればいいなと思って。絶対に忘れたくないなとも思って。けど、結局のところ、大事なときにいつも一つとして思い出せなくて……言葉は僕の想いを裏切って……何より言えない自分が情けなくて。切なくて。苛立たしくて。悔しくて……何から話せばいいのか、さっぱり分からなくなってしまった」


 僕は目を閉じたままで、ごくりと唾を飲み込んだ。


「でも、今ならそんな飾りつけた言葉なんかより、もっと大切なことが言える」

「ええと……荒野くん?」

「好きだ。すももさん、大好きだっ!」


 その二文字が喉から過ぎてしまってからというもの――


 世界中が無音の状態になったような気がした。しばらくの間、静寂だけが過ぎていった。


 しだいに僕の心音だけが再度、ドクン、ドクン、と激しく波打ち始めた。数十秒、それから数分……いや、どれくらいの時間が経ったのだろうか。ずっと遠くのグラウンドから、「バチ来ーい」という野球部の掛け声がふいに聞こえてきた。


 目をゆっくりと開けてみると――


 瞼の裏が灼けるようにひどく熱かった。


 いや、違う。思い切り泣いていたんだ。知らなかった。涙がこんなに熱いものだなんて。


 霞んでいく景色。でも、はっきりと分かる。三日前と同じくらい、真っ赤な夕日。そして、同じくらいに頬を紅く染めている、すももさん……


 その淡くて可憐な唇が開いたとき、あまりにも意外な言葉が漏れて出てきた。


「わたしも……好きです」

「え?」

「その言葉。ずっと待ってました」

「な、何で?」


 そう応じてしまい、自分の軽率さに呆れてしまった。何で、ってそれこそ何だよバカ!


 でも、すももさんは「ううん」と首を横にゆっくりと振ると、


「だって、私も好きだったから」

「でも、すももさんは――」


 すると、すももさんが僕の方にゆっくりと崩れてきた。


 その小さな頭がゆらりと僕の胸もとに入ってきて、甘い香りが鼻をくすぐった。


 すももさんの華奢な肩に両手が触れると、僕は思わず、ギュッと強く、強く、抱きしめていた。そして、二人が目を合わせたときに――


 その出来事が起こりやがったんだ。

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