#2 本当のこと

 入り江の周りの集落と、港を見下ろす小さな山の中腹にある学校と病院、そして山頂の灯台。これが本当に島の全部だった。白いローファーをはいた彼女の、どこかふわりとした足取りでも、すぐに島のどこへでもたどり着くだろう。


 連れて行ってもらった食堂は病院のすぐ麓、高い防波堤が続く狭い道沿いにあった。元はやはり、古い木造の民家らしかった。ただ、板張りの壁は薄いブルーで綺麗に塗装されていて、花の首飾りが掛けてあったりするのが南国のカフェ風に見える。

「ランチが食べられるの、ここだけなんです。でも、そんなに悪くないでしょ?」

「漁師さんの番屋みたいなところかと思ってました、シラス丼ですし。おしゃれなお店で、正直びっくりです」

「ほんとう? 良かった」

 安心したように微笑んで、静江さんは「こんにちは」と店の引き戸を開いた。


 小さな店だった。十人もお客が入れば満員だろう。向かい合って座った席は道に面した側で、防波堤のすぐ向こうに入り江が見えた。カウンターの向こうにいる店員さんは僕と同年代と思える男性で、陽に灼けた顔がいかにもワイルドだ。


「南の島っていうか、熱帯みたいでびっくりしました、ここに来てみて」

「熱帯ほどではないけれど、海流の関係で冬もあんまり寒くならないんです、ここは」

「うらやましいです。僕の町では、もう冬が目の前まで来てますから」

 開け放たれた窓の向こうに僕は目を遣った。写真でしか見たことのない、明るい青の海。心地よい潮風を今こうして浴びているのが、まるで夢のようだった。

「でも、多部さんのところも、とっても素敵ですよね。アルプスみたいに、山の高いところが雪で白くて……」


 彼女とやり取りを始めるきっかけになったのは、職場の窓から撮影した写真だった。山々に囲まれた僕の町の数少ない自慢。スイスに例えられることもある、冬の景色を写したものだ。ネット上に投稿して最初に返信をくれたのが、この「こばると」さんだったのだ。その写真のことを、覚えていてくれたのだろう。

「行ってみたかったのね、きっと」

 小さくつぶやいて、静江さんは窓の外を見た。まるで、誰かに優しく話しかけるように。


 間もなく、丼が運ばれてきた。透き通った生シラスが、ご飯の上で宝石みたいにキラキラしていて、食べるのがもったいないくらいだった。

「なんだか、帰るのが惜しくなってきちゃいました、この島。まだ来たばかりなんですけど」

 すっかり空になった丼を前に、僕はため息をついた。

「ずっと居てくださってもいいんですよ」

 静江さんは、控えめに微笑んだ。

「ところで、今日のご予定は?」

「最終の、15時の船で帰るつもりです。向こうの港の近くに泊っているので」

「海潮荘さんですね。じゃあ、もう少し時間がありますね。実は、ご案内したいところがあるんです」

「ありがとうございます。『こばると』さんのご都合さえ大丈夫なら、ぜひ……」

 静江さんの表情が、ふいに曇った。しまった、こうしてリアルで知り合いになったのに、ネット上の名前で呼んでしまったのは良くなかっただろうか。


「……あ、ごめんなさい。垣内さんの都合さえ良ければ」

「いえ、そうじゃないんです。本当のことを言いますね」

 彼女はテーブルの上に視線を落とした。

「わたし、『こばると』じゃないんです。姉なんです、彼女の」


(#3「同じ海」に続く)

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