Episode019 入浴中の戦慄
入浴用の儀礼衣に袖を通す。
他者と湯を共有する入浴時には儀礼衣を着る。
これは千年前からの習慣だ。
神聖な湯を汚さないためだとか、そういう慣習らしい。
「君まで入ってくる必要はなかったんだよ」
なぜか黒猫姿のままベルティスの肩の上に座るローレンティア。猫だから湿気が多いところは嫌だろうに、撥水性が高い毛並みだから大丈夫ですと言って聞かなかった。仕方なく、彼女を湯船に落とさないよう気を付けながら中央へ移動。
しばらくして、可愛らしい儀礼衣を羽織ったセシリアがぱたぱたと駆け込んでくる。ベルティスを見つけた途端にしゅんとしおらしくなり、エルフ耳すら垂らす始末。
そのままそろそろと湯のなかに入ってくる。
おそらくはしゃぎ過ぎた羞恥心だろう。
意外なところで女性らしい心境の変化が見られるというものだ。
『今日は湯に飛び込まなかったですね』
「り、リア、そんなことしないもん……」
「いつもそんなことしてたの?」
『ええ。ここのお風呂は泳げるほど大きいので、よく飛び込んでいました。今日はマスターがいらっしゃるので、はしたないと思ったんでしょうね』
「へえ……」
セシリアが顔を真っ赤にして湯のなかに顔をつける。湯のなかで言い訳を述べられても聞こえないのだから、ベルティスは笑うしかない。
そのあと、セシリアが背中を洗ってくれた。
肩に乗ったまま移動しようとしない黒猫は、セシリアに背中の洗い方を伝授している。なんとも珍妙な雰囲気だが、それともセシリアがはりきっていたので、ベルティスが止めることはない。
各それぞれ体を洗い終わり、再び湯につかる。
「ローレンさんってお湯に入れたらどうなるの?」
突如、セシリアが黒猫を湯にいれたいと言い出してきた。
どうなるのかベルティスにも分からない。試してみればいいと言って、ローレンティアを湯に入れる。
「浮いたー」
毛が濡れることなく、ぷかぷかとローレンティアが浮く。
撥水性の高い毛並みだとは言っていたが、まさか湯に浮かぶほどとは……。
「でもどうやってシャンプーするの?」
毛が濡れないのだからシャンプーもできないだろうとセシリアは思ったのだろうが、それに対しローレンティアは、その時々に毛並みの質を変えます、と答えてきた。
『こんな風に』
黒猫の毛がいい具合に湿り、猫のラインが露わとなる。
するとセシリアが、目をぱぁああと輝かせた。
「リアがシャンプーします!!」
『え? いやあの、あとでちゃんと人の姿に戻って洗いますし』
「遠慮しないでください! いつもリアにシャンプーしてくれるお礼です!」
『そんなお礼なんて────にゃぁあああん!?』
悲鳴をあげる黒猫を抱きしめ、セシリアがローレンティアのシャンプーを始める。
あれは人用の人工洗髪剤だが、彼女に猫用は使用しなくていいだろう……。
「平和だな」
ぽつりとつぶやき、ベルティスはしばらく少女と猫が戯れる様子を眺めた。
そしてまた、ローレンティアが体を震わせて毛の脱水を終え、再び毛並みを撥水性の高いものに変化させる。そのあとベルティスの肩に戻ってきていた。
しばらくしてから。
「せっかくみんなでお風呂に入ってるんだ、ついでに人生相談といこうじゃないか」
「人生相談?」
「悩みごとを話す会だよ」
セシリアがどのような感情を抱いて毎日を過ごしているのか。
それは、大賢者であったベルティスにも推し量ることはできない。
文学や哲学という学問に興味はあっても、いま目の前にいる人間がどのようなことを思い、どのような悩みを抱いているかなど、いままで興味なかった。
「セシリアは表情豊かだから、なにを考えているのかとても分かりやすい。でもそれは、表面上そう見える表情ではあるけれど、深層心理がどうなのか僕には分からない。言葉にしてみないとね」
ある意味、『感情』などという曖昧な概念にベルティスが深い興味を抱くようになったのは、セシリアと過ごすようになってからだ。
セシリアは負けず嫌いだ。
訓練が厳しくて泣きそうになり、ユナミルとの力量差に気づいて泣きそうになり、フルーラに叱咤されて泣きそうになっている。そしてその次の瞬間には、揺るがない闘志を目に宿しているのだ。
ベルティスには天賦の才能があったので、苦労というものをあまり知らない。いつのまにか高度な冰術を身に付け、いつのまにか《賢者》の称号を与えられ、いつのまにか《大賢者》に上り詰めていた。
セシリアはベルティスと真逆だ。
セシリアに才能はあるが、努力しないと開花しない類いのもの。途中で挫ければそこで終わり。永久凍土に封じ込められた花の種のように、誰かの手を借りないと芽を出せない。
「僕はね、前世では自分の感情を持たない子どもだったんだ」
「お兄ちゃんが《大賢者》って呼ばれてたときのことですか? 千年前のことですよね」
「そうだよ。フルーラが言うように、僕はそれこそ化け物だった。何もかも持っていたかわりに「人間味」を欠落していた。……化け物だから早死にしたのかもしれないね」
セシリアには面白くない話だったかもしれない。
空いた手を落ち着かせるべく黒猫の毛並みを触る。落ち着いたところで、また口をひらいた。
「セシリアは、強くなりたいかい?」
いままで、セシリアを強くしてきたのはベルティスだ。
どちらかというと彼女は、運命を受け入れる側の存在。
自分からこうしよう、こうでありたいと願望を口にしたことは一切ない。
「リアは……」
セシリアの小ぶりな唇が震える。
「強くなりたいです。強くなって…………」
「強くなって?」
あと一歩で、セシリアの口から自分の意思が飛び出す。
そんな矢先で。
「なんだいなんだい。麗しの師匠をおいてみんなで仲良しこよしかい?」
浮遊するフルーラの姿。しかもご丁寧にドレスの裾を軽くめくって、水しぶきがかからないようにしている。なんとも自分命ドレス命なご師匠さまだ。
『いま、ただでさえ低いフルーラ様の好感度が、マスターのなかでマイナス値になった気がしました』
「よく言ったローレンティア。ついでに猫パンチする許可も出す」
「アタシはアンタに好かれたいと思ったことなんざ一度もないよ。アタシが好きなタイプは、アンタみたいに痩せてないしアンタみたいに上から目線じゃないしアンタみたいに化け物じゃないよ」
『マスター、みだれひっかきと噛みつきも許可してください』
「……。フルーラ、いまは取り込み中だ。冷やかしならあとにしてくれ」
大事なセシリアとの会話だ。
彼女に邪魔されては、セシリアの自由な発言が侵害されてしまう。
「これは悪いことしたねェ。こちとら、急ぎで愚弟子に伝えることがあったんだよ。ラミアナの件でさ」
「だからって入浴中に侵入しないでくれ」
「アタシは常に面白いことを求めてる。不格好で丸腰なアンタを、こんな風に上から見下ろすのも一興だよ」
相変わらず性格のひねくれた女性だ。
慣れているベルティスは、ため息でその場を流す。
「あとで聞く。いまはセシリアとの会話のほうが重要だ」
「いま聞いた方が懸命だよ。なにしろ、ラミアナを連れていった辺境伯はディアノゴス・ブラキア・エンベールっていう男だと確証を得たからね。なかなか面白いことになってるよ」
刺激を求めて快楽を得る魔女の顔が、にぃと笑みを作り出す。
追い払っても彼女の口は止まらないだろう。
ならばもう聞くしかない。
「エンベール家といえば騎士公爵か……?」
ということは、使い魔でみたという馬車の家紋は周りの目を欺くダミーだったということになる。《騎士公爵家》といえばフィネアネス皇国で大貴族と呼ばれる家柄のひとつだ。
優秀な騎士を輩出する言わずと知れた名門の家。エンベール家ともいわれる。
「騎士公爵といっても本家を継げるほど血の濃いやつじゃぁない。親戚の親戚、かろうじて騎士公爵と名乗れるだけの名前を持ってるってだけさ。辺境を任されてるって意味じゃあ、辺境伯って言われてもウソじゃないけど」
612階層にある指定危険エリアの奥地に、四皇帝魔獣ラミアナが閉じ込められていることは誰も知らない。おそらくディアノゴスは、そこにいた魔獣があの有名なラミアナだと知らずに侵入し、連れ去った可能性があるのだ。
こんな高階層に、まさか四皇帝魔獣が封印されているなどと露にも思わないだろうから。
「ということは、僕は夜中に、そのディアノゴスっていう男の屋敷に忍び込んでラミアナを奪い返さなければならないってわけだ。家さえ調べられれば、姿くらましで……」
「ところがどっこい、今回は《大賢者》ですらそう簡単に奪い返せない理由があるのさ」
たいてい大賢者に不可能はない。
冰術で催眠なり洗脳なりさせて人を使えば、誰にも気づかれずにラミアナをここまで運ぶことができる。
しかしフルーラは、やはり面白可笑しそうに、それこそ狂喜っぽくベルティスの自信を粉砕するのだ。
「ラミアナの心臓……いわゆる結晶石は、二カ月後エンベール家が主催する《
騎士公爵家は皇族と元老院のつながりが深い。
あらゆる手段を用いて、ベルティスが犯人だと突き止めてくるかもしれない。
ではどうするのか。
「《
陰から操って自分の利益を会得するのも良し。
真正面からぶつかり、相手を蹴散らして勝利を掴むのもまた良しだ。
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