幸せを運ぶ白猫

しらす丼

本編

「その時、白猫を見たんです」


「はあ」


 この人は何を言っているんだ、と内心で思った。


「その、白猫が今回の作品のキッカケということですか?」


 それでも私は質問をやめない。

 だってそれが、今の私のやるべきことだからだ。


「そうとも言えますね」


「しかし、作中に白猫は出てこないですよね?」


「ええ。でも、あの白猫をみてビビッと来たんですよ。次の作品は猫みたいな主人公にしようって」


「はあ」とつい間の抜けた返事をしてしまう。


 大変失礼極まりない行為であることは百も承知だった。しかし、やっぱりその話を素直に信じられないと思ってしまう。


 だって、白猫がキッカケって……。


「ははーん。その顔は胡散臭いなぁって思ってますね」


 悪戯好きな少年の瞳で、そう言われてしまった。


 彼が怒っている様子はないけれど、やはりバツが悪い。


「すみません! そんなつもりじゃ……」


 そう口では否定しつつも、少なからず胡散臭さは感じていた。


 でも、仕事中にそんな腑抜けた顔をしていたなんて。私もまだまだである。


「あなたも会えば分かります。白猫が何かをもたらしてくれるって」


「ははは。ありがとうございます。そうなるといいなあって思っておきます」


 そう言って作り笑いをしていた。


 いやいや。そんな奇跡みたいなこと、あり得るはずがないでしょうに。と内心でひとりごちて。


 それから私は咳払いを一つ。インタビューの締め言葉を告げた。


「こちらこそ、今日はありがとうございました。また、いつでもインタビューのご依頼をお待ちしております」


「ええ、ありがとうございます」


 それから深々と頭を下げ、インタビューに応じてくれた中山田なかやまだ先生を見送ったのだった。





 目の前には陽光をたっぷりと注ぎ込む大きな窓。部屋一面に白い壁。


 何かの会議で使われたであろうホワイトボードは、マーカーがうまく拭き取れていなくて、黒い点々がところどころに残っている。


 閑散としたこの部屋にある木目調の長机に頬杖をついて、大きなため息をつくのは私だ。


「白猫って、なんだそれ。白猫みたら、本屋大賞受賞も直木賞候補にもなれるの? そんな馬鹿なことあるはず……」


 けれど、実際にそうだった。


 さっきまでインタビューをしていた中山田先生は、最近デビューしたばかりの新人作家だ。 


 しかし、デビュー作が有名な評論家の目に触れ、それから世間で話題となり、何度も重版。そして今期の本屋大賞受賞と直木三十五賞候補にもなった超大型の新人作家なのだ。


 私も昔は作家になる、と下手くそな小説を書いていたものだが、才能のなさに打ちのめされ、今はもう小説は書いていない。


 しかし、文字を扱う仕事には就きたいと考え、今ではフリーのライターをやっている。


 そちらも泣かず飛ばずでいるものの、知り合いのツテでなんとか食い繋いでいる感じだ。


 今回も知り合いのツテで得た仕事で、噂の超大型新人作家の独占インタビューに成功したというわけである。


「キッカケは白猫か」


 記事にしづらい。しかし、せっかくの独占インタビューだ。


 これを機に私のライターとしての才能が認められるなんてこともあるかもしれない。幸せのお裾分け的に。


「はあ」


 何を馬鹿な妄想をしているんだろう、私は。


「ミカちゃん、お疲れ。中山田先生のインタビューはどうだった?」


 そう言って扉を開けて入ってきたのは、秋桜コスモス文庫編集部所属の山崎照政やまざきまさてるさん。私にいつも仕事を回してくれる心強い味方だ。


 大学のサークルの先輩である山崎さんは、昔からいろいろと私のお世話をしてくれる兄のような人だった。


 彼は実力のある編集者として業界では有名で、今では人気作家さんの担当などもしているらしい。


「山崎さん、お疲れ様です! 今回の、記事にするにはなかなか難しそうですねえ」


 作家になるまでのことを色々と伺いはしたものの、後半はほとんど白猫の話ばかりだったのである。


 そのまま記事にしたら、作家志望者は血眼になって白猫を探し始めるかもしれない。


 それはそれでちょっと面白いかも、と笑いそうになったが、心配そうな顔をする先輩の前だったのでそれをなんとか抑制する。


「ははは! ミカちゃんならきっと大丈夫! 期待してるよ」


 山崎さんは白い歯を見せてニカッと笑う。先日、ホワイトニングをしたとか言ってたっけ。


 見た目にお金がかけられるのは、それだけお給料を貰っている証拠だ。ちょっと羨ましい。


「ありがとうございます。頑張ります!!」


 そう告げてから、私は秋桜文庫編集部の応接室を後にした。





「帰ったらさっそく作業に取り掛からないとなあ」


 そんなことを呟きながら、俯き加減で私は歩道を進んだ。


 横切る人々の足元を見る限り、営業マンかOLが多い。


 夕刻のオフィス街。革靴やヒールの低いパンプスが疲れた音を鳴らしている。


 社会人の足音はたいていそんなものだ。学生時代の希望に満ちた足音とは遠くかけ離れている。


「こんな生活、いつまで続くんだろうな」


 そんな小言とため息が同時に漏れた。


 作家になると言って田舎を出て、有名大学の文学部を卒業したものの、結局はフリーライターにおさまっている。


 今の仕事が嫌いなわけではないけれど、やはり作家という職業には未練があった。


「だから今回のインタビューが少し楽しみだったのに」


 これを機にまた小説を書きたくなるかもしれない。作家を目指そうと思えるかもしれない、と。


「でも、白猫か……」


 確かに白猫は『幸運を運ぶ』と言われている。


 けれど、ない才能を補うほどの幸運は含んでいないことくらい、私にだって分かっていた。


「はあ……さっさとやることやって、ボトル開けようかな」


 先月の誕生日のお祝いで貰った赤ワインが、キッチンの隅で今か今かと出番を待っている姿を想像した。


 スペイン産のやや辛口。正直、あまりワインに詳しくはないが、辛口ってなんだか通っぽくて響きがいいと思っている。


「カプレーゼと一緒にって言いたいけど、節約しなきゃね。確かプロセスチーズが残ってたはず」


 とりあえず、プロセスでもチーズはチーズだ。この際、アテは何でもいい。


 頭の中がスペイン産のやや辛口赤ワインとプロセスチーズでいっぱいになっていた時、音もなく一陣の風が頬を撫でる。


 まだ仕事は終わってないぞ、と言われた気がした。


「うぅ。早く帰ろう」


 晩秋の風は三十路の体に沁みる。


 体をブルっと震わせてから、家路を急いだのだった。



 ***



 数日後。何やかんや言いながらも私は無事に記事を書き上げ、期限内に納品することができた。


 明日には記事がウェブサイトに公開される予定になっている。


「作家よりも、ライターの方がやっぱり合っているのかな」


 インタビューをした日に飲むと決めていた赤ワインは結局その日のうちに開けられなかった。


 書き終えた後に開けようと思っていたけれど、その日は結局そのままバタンキュー。


 そして飲む機会を一度失うとなかなかチャンスは訪れないもので、その赤ワインは今でもキッチンの隅で悲壮感を漂わせながら、封が切られる日を待ち望んでいる。


「明日、記事が上がったらにしよう」


 プロセスチーズの賞味期限は大丈夫だっただろうかと冷蔵庫を確認すると、ちょうど二日前に切れていた。


 たぶん食べられないことはないと思うけれど、なんだかお祝いなのに期限切れのチーズは嫌だな。


 ちょっと大袈裟かもしれないけれど、このチーズみたいに私もいつかは期限切れのフリーライターといわれるようになるような気がしたからだ。


「近所のスーパーなら、プライベートブランドの安いプロセスチーズがあったはず」


 安いチーズでいいと思うこともあまり良くないような気がしたが、期限切れよりはマシだ。


 自分にそう言い聞かせ、薄手のロングカーディガンを羽織って外に出る。


「風は冷たいけど、太陽が出てるぶん暖かいな」


 右手をかざしながら、空を見上げる。

 キャンパスを青一色で染めたような空だった。なんだか清々しい気持ちになる。


 顔を正面に戻すと、反対側の歩道から車道を全速力で渡る白い物体が見えた。


 目を凝らすと、それは――


「うそ。白猫……?」


 駆ける白猫は一瞬だけ私の方を見た。しかし、その白猫は止まることなく、私の目の前を突っ切る。


「あ、待って!」


 追おうと足を動かすが、時すでに遅し。白猫の姿は見えなくなった。


「これは、見たって思っていいの?」


 しばらく呆然とその場で佇み、私はハッとしてスーパーへ向かった。


 プロセスチーズを買いに行く途中だったことを思い出したのである。


「なんだろう。何か、変な感じ」


 白猫をみた瞬間から、私の胸の奥はザワザワとし始めていた。


 ――変化の兆し、とか。


「まさかね」




 プロセスチーズを買って家に戻った私は、赤ワインのボトルを開け――ずにリビングテーブルに置いてあった仕事用のノートパソコンの前に立っていた。


 なぜか今の私はワイン気分ではなく、もっと違う感情で満たされていたのである。


 ゆっくりとノートパソコンを立ち上げ、木製のリビングチェアを引き、そこへ腰を下ろす。


「ちょっとだけ」


 私の手は自然に動き出していた。


 始めた頃の胸のドキドキ。

 プロ作家になると信じていたキラキラと輝く心。


 ずっと忘れていた感情だった。


 ハッとして顔を上げると、書き始めて三時間も経っていることに気づく。少し、驚いた。


「……なんだ。書けるじゃん。まだ、ちゃんと」


 文章作法も人称もちぐはくだけど、書きたい物語をカタチにできていた。


「プロ作家には遠く及ばないかもしれない。でも、私の中には物語がまだ残っている」


 あの白猫が、この気持ちを思い出させてくれたのかな?


「中山田先生も同じ気持ちだったのかもしれないね」




 そして翌日公開された私の記事は、高く評価された。


 実際に記事を読んでくれたという中山田先生は、SNSを通じて私の文章力を絶賛していたらしい。


 私は山崎さんに言われてから、実際にその投稿を見にいった。すると、そこには嬉しい言葉が綴られていたのである。


『彼女の言葉には、魂が宿っている』、と。


 ライターという仕事は好きだし、おそらく私に向いている職業であることは分かっていた。


 けれど、私はもう一度挑戦してみたくなったのだ。


 作家になる、という夢に。


 中山田先生の言葉と、あの白猫が私にキッカケをくれた。


 どんな運命を辿るかなんて分からない。


 でもこれだけは確かに言える。きっと運は私に味方してくれる、と。


 だって私は、幸せを運ぶ白猫に出会えたのだから――。





 それから私は数日かけて、書きかけの小説を完成させた。


 その作品をマイナー雑誌社の新人賞に応募し、そして――。


「うそ。佳作? 私の作品が?」


 新人賞受賞にはならなかったものの、なんの奇跡かそういう結果になった。


 有名雑誌社主催の新人賞ではなく、あえてこの新人賞に応募したのは、佳作でも二人三脚でデビューを目指すことができるという特典があるからだ。


 そう。今回の新人賞で佳作に選ばれた私は、作家デビューへの切符を手に入れたのである。




 一年後。紆余曲折はあったけれど、無事にデビュー作が刊行された。


 売れ行きはまずまずだったが、初めはこんなものだろうと今は無事に書店に並んだことを喜んだ。


 それからどんな奇跡か、若者の中心となっているSNSで人気のレビュアーさんが私の作品を絶賛。それをキッカケにデビュー作はあっという間に世間に知れ渡った。


 SNSで広がる、というのが現代らしいなと思う。そして私の作品を掘り出してくれたレビュアーさんや、拡散してくれた若者たちには感謝しかなかった。


 若者の読書離れは深刻だと聞いたことがあったけれど、こうして自分が若者の読書のキッカケになれたことは嬉しい。




 やはりこの幸運は、あの日の白猫がくれたものなのだろうか。


 ブックカバーのついた一冊の文庫本を撫でながら、そんなことを思う。


「中山田先生が、私を白猫に引き合わせてくれたのかもね」




 そして、その後にした長編小説の売れ行きはどれも好調で、私はいつの間にか人気作家の仲間入りを果たしたのだった。



 ***



 数年後。私はとある雑誌社の応接室にいた。


 今日は先日発表された直木三十五賞受賞者として、インタビューを受けている。


「遅咲きの作家として多くの人たちに希望を与えていると言われていますが、執筆を始めるキッカケというのはなんだったんですか?」


 ようやく来たか。私はそんなことを思い、ニヤリとする。


「はい。猫を見たんです」


「え、猫?」


 インタビュアーの女性はきょとんとしていた。


 数年前の私も似たような顔をしていたのかもしれないと思い出し、クスリと笑う。


「そうです、猫です。でも、ただの猫じゃないですよ?」


「どういうことですか?」




 そして私は答える。


 幸せを運ぶ白猫ですよ、と。

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幸せを運ぶ白猫 しらす丼 @sirasuDON20201220

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