第十三話 至エオマイア
汀が買い物を嫌がったので至は自分で行くことにした。彼女が自分で望んでやっていたこととは言え、やはり学校も行って買い物も料理もというのは大変だ。それに、今なら汀の好むものも分かる。
しかし買い物から帰って食事に誘うと、寝室にこもっていた汀は、いらないと言ってそれを突っぱねた。
「いま食べないとご飯抜きです」至がけしかけてみても汀は返事をしなかった。
汀は昨日からどうも元気がなかった。昨日はかろうじて一緒に夕食を食べたが、ほとんど会話を交わさなかった。
買い物が
翌朝になって汀は、学校を休みたいので連絡を入れて欲しいと頼んできた。至は特に理由もたずねることなくそれを承諾した。
「いいよ。時間になったらちゃんと電話しておくよ。電話番号とクラスだけ置いてって」
それを聞くと汀はうつむき加減にありがとうと言い、生徒手帳をコタツ机に置いて寝室であるロフトへと戻っていった。
黄色いパジャマの後姿、髪の毛もまとめずに汀は梯子を上っていった。至はその様子をぼうっと見続けていた。眠かったというのもあるが、汀は黄色が好きなんじゃないかと今さら気がついたからだ。汀が黄色いカーテンをめくり、その中に潜り込むと、単管足場で組まれたロフトはみしみしと
至はそれから冷蔵庫を確認するが、汀が食事をとった形跡はなかった。昨日の給食は食べているのだろうが、それから何も口にしていないようだ。汀に言わせれば一人で食事をとることはルール違反なのだ。こっそり食べればいいのに、頑固だ。
至は一人で食事を済ませてコンピューターに向かう。しかし集中できずに、しばらくすると出かける準備を始めた。支度が整うと汀に、夕方まで出かけてくるからと言って留守番を頼んだ。
いくつか調べたいことが有ったのでこの機を利用して図書館へ向かうことにした。飽きたらそのあとで動物園に寄ってみるのもいい。あるいは豊に電話してみよう。
ガレージに居たたまれなくなったのも事実だ。しかし至はこうも考えている。あんなところに暮らしていて、しかも至がずっとコンピューターの前に居たら汀だって落ち着かないだろう。ああいう時は一人になりたくなるものだし、そうなるのが本人にとってもいいのだ。夕方まで帰らないと言ってあるのだし、汀もゆっくりできるだろう。こっそりご飯を食べるのだってやりやすいだろうし、気晴らしに歌を歌いながらシャワーを浴びたってだれも文句は言わない。せっかく学校を休んだのに家に家族が居たのでは余計に気が落ち込むだけだ。
家族と顔をあわせたくないときくらい誰にだってあるだろう、特に汀くらいの年齢には。至にだって経験がある。それは吐き出すこともできず、飲み込むこともできない胸のつかえのようなものだ。あるいは無言の抗議や訴えだが、汀がそんな小賢しい手段を用いる子には到底思えない。
こんなときには、もしかしたら母親ならばなにかしら声をかけてあげるのかもしれない。あるいはアメリカならば陽気に振舞うお父さんの役目なのかも知れない。しかし至ならば、やはり触って欲しいとは思わないだろう。
至は図書館で調べ物をして、ファーストフード店で時間を潰した。動物園には行かなかった。ナースチェンカの製作に取り掛かる前、高校生の頃。至はネズミのような動きをするロボットを作っていて、その頃はちょくちょく動物園に足を運んだ。小動物舎に行ってネズミの動きを観察するのだ。彼らがどういう行動をとり、その時に何を認識したのかを探る。
動物の持つ本能と呼ばれるような行動は、統計に基づいた実に単純なアルゴリズムのように思われた。それだけを見ていると生き物を再現することくらい難しいことではないような気になってくる。しかし人間の場合はあまりにも未熟な状態で生を受けるために、その成長の中で自ら破壊的な操作を基本とするアップデートを繰り返していくことになる。しかし局所性を損なうプログラミングはバグの温床となる。ひいては
思春期の時ってだいたい誰でもいじけていて、でもいじけていると何一つ楽しむことが出来なくて、最終的には自分をだますことでそれを解決するんだ。このときから人は大きな矛盾を内包することになる。ネズミが恐怖心と好奇心をあわせもつように、均整のとれた矛盾は生命に活力を与える。しかしそのアップデートを適当な時期にインストールし損ねると、至のようにいじけた性格が直らなくなってしまう。
至は学校を休みがちになると、家族と顔をあわせづらくなり、深夜にこそこそとご飯を食べるようになった。薄明かりのキッチンで冷蔵庫をあさっていると、自分こそネズミなんだと感じるようになった。全ての哺乳類の祖はエオマイアというネズミ様の生き物だ。人はその内側にネズミを内包している。
汀が何の処理に戸惑っているのかは分からないが、やはり楽しく学校に通ってもらいたいと思う。
夕方まで時間を潰すと一度ガレージに戻った。そのとき汀は既に寝室にこもっていたので、一人のガレージを満喫していたのかどうかは分からなかった。しかし少なくとも冷蔵庫のものは何も食べていない。
至の場合、みんなの寝静まったあとの家をわりとのびのびと楽しんでいた記憶がある。それはこっそりと檻を抜け出したネズミのようなものだ。不登校という家族に対する後ろめたさというのは、檻をかぶせられているようなものなのだ。
そして汀はこの日の夕食も拒否した。汀の好きなものを、と考えて買い物をしているときからなにやら胸がつかえ、至まで食欲を奪われるみたいだった。すると肉だとか魚なんかよりもプリンが食べたくなって、三個パックのプリンを買い物籠に入れた。
あとで勝手に食べてくれれば、少なくとも食事に関しては、至だって気に病むことはない。檻の掛け金は外してあるのに、台所にはチーズだっておいてあるのにネズミは一向に外に出てこようとはしなかった。果たしてこんなルールに意味があるのだろうか――と、至は悶々としながら一人で食事を続けた。
――おかしいな。一人で食べるからってご飯がこんなに味気ないはずはないんだけどな。
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