第十四話 汀、深夜徘徊

 読んでいた本の角が汀の頬を突付く。気がつくと電気をつけっぱなしで寝ていた。汀は布団の中で一つ伸びをして、枕に顔をうずめた。さっきまできりきりと胃を刺激し続けていた空腹は収まっている。その代わりにじっとりと吐き気にも似た違和感があった。もう贅沢ぜいたくは言わないからぷるんぷるんのプリンを一つだけ賞玩しょうがんさせてください――その違和感はそんな妥協のように感じられた。


 枕元の時計を見ると深夜一時を回っている。布団から這い出し、カーテンをめくって至のロフトを見ると、電気が消えていた。するとなんだか急に開放的な気分になった。汀は上着を羽織り、音を立てないように、灯りもつけないままで梯子を降りていく。ガレージの空気はすっかりと冷え切っていて、地上に降りるまでにすっかりと目が覚めてしまった。


 至さん、いつもは遅くまで起きているのに今日は出かけていたので疲れたのかも知れない。

 パジャマに上着だけでは寒かった。汀は勉強机の卓上ライトをつける。眩しさに目がくらんだ。指向性の強いライトは鍵のようなちょっとしたものにまで深い影を凝着させる。汀はスウェットと学校指定のピーコートに着替え、スマホと鍵を持ってそしてライトを消した。すると今度は突然の暗闇に目がくらむ。そっと足元を確かめながらドアの方まで歩いていくと、膝で何かを蹴っ飛ばした。びいんという機械音が聞こえて、蹴り飛ばしたものがナンシーだったと気がついた。不意の襲撃に驚いたナンシーはぱたぱたと音を立てた。膝の高さでナンシーを蹴っ飛ばすというのも不思議だが、また不気味なポーズでもとっていたのだろう。汀はごめんね、と言ってそのままドアまで歩いていく。


 夜風が冷たいがそれが心地いい。そっと鍵をかけてそのまま歩き出した。貸しガレージの並ぶ敷地を抜けるとガードレールのある歩道に出る。電柱には痴漢出没の看板がくくりつけられている。確かに街灯が少なく、人通りの少ない道だ。コンビニは歩いていける距離で、煌々こうこうとした灯りがここまで届いていたが多少不安にもなる。汀はきょろきょろとあたりを見回して、近くに誰も居ないことを確認し、ポケットの中でスマホを握り締めた。


 外に出ると開放されたような気持ちにもなったが、同時に不安だった。家族といると、そして家族との食事を避けると、自分が檻の中にでもいるような気持ちになった。家族の存在こそが、いま自分が非日常的な心理状態にあることを際立たせる。


 住宅が並び、たまに畑が混じった。後ろを振り返ってみると――誰も居ない。汀は不安を感じるたびに後ろを振り返った。不安の中でコンビニはなんだかやたら遠くに感じられた。夜に至と歩いたことがあるが、その時は近くて便利だなくらいに思ったものだ。


 家族は窮屈だが檻なんかじゃない、きっと本当は自分を守ってくれるはずのものだ。


 すると突然電話がかかってきて驚く、汀は至さんが気がついたのかと憂慮する。こんな時間に一人で外に出たなんて知れば――至さんは怒るだろうか。だとしても、いま至さんの声が聞けると思うと少し安心する。開き直ってコンビニにつれてってくれとお願いしてやろう、そんな風に考えながらスマホを取り出してみると、向井さんからだった。たしかに電話番号は交換したものの電話がかかってくるのは初めてのことだ。

「もしもし?」

「もしもし、本間さん」

「うん。どうしたの?」

「んー……。げんきかな、と思って」


 不思議な子だ。普段ならこんな時間に電話がかかってきたら非常識だと思っただろう。しかしどういうわけか向井さんならば許容できたし、そしてこと向井さんに対しては、自分はしっかりしなければならないような気分になるのだった。こういうのは自分が落ち込んでいたり、不安に囲まれていたりするときには面倒な性格だ。有野さんならば強がったりしないで「いま怖かったんだよー」なんて言うのかもしれない。いや、そもそも有野さんならば、こんな状況に陥らないのかもしれない。やはり自分は頑固なのだろう、汀は思った。


「向井さん……」

 元気だよ、なんて言うのも、嘘っぽいような気がしてしまう。向井さんは自分に原因があってわたしが落ち込んでいるだなんて考えていないだろうか――。それを思うと、汀はまた窮屈に感じるのだった。それはきっかけであるかもしれないが、正しい理解ではない。


「本間さん、あのね……、どこ行くの?」

「えー、なんで外に居るって分かったの?」

「あ……。えっと……」

「音の感じかな? なんか……コンビニ行きたいなって、お菓子かなにか食べたいなって、おもったけど……暗くて怖くなっちゃった」

「冷蔵庫にね、プリンがあるよ」

「向井さんち?」

 汀は歩きながら電話をした。バス停の前を通り過ぎる。誰が置いたものなのか、バスを待つ人の為に汚いソファが置いてあった。

「んー、本間さんち……」

「えー、何でわかるの?」

「で、電波が……ピピピッて」

 汀はまた辺りを見回し、だれも居ないことを確認した。目の前の生垣は山茶花さざんかだった。山茶花の、わびしさを内包する赤は冬の闇によく映えた。

「ちょっと待って、それ本当ならわたし、もうすぐにでも帰りたいんだけど」

「本当だよ。あのね、至くんが……、あっ」

「あれ。向井さん、至さん知ってるの?」

「え……。あ……、うん。お兄ちゃんと仲いいの」

「え、そうなの? えー、なんで今まで黙ってたの? そっか、至さんがプリン買ってるところ見たってことなのかな」

 向井さんの返事はなかった。でも向井さん、いつもの癖で電話を持ったまま頷いているんじゃないかというような気がした。

「向井さん、向井さんの言うことを信用して、もう引き返そうと思うんだけど、ちょっと暗くて怖いからさ、家に着くまで電話してていい?」

「うん」

 汀は来た道を戻り始めた。向井さんは何もしゃべらなかったが、電話をしていると安心だった。気持ちの上でもそうだし、何かあったとしても少なくとも向井さんには異常が伝わる。

 しばらく無言が続き、何か話すことあるかなと空を見上げると、街中まちなか寒々さむざむとした星空が目に飛び込んできた。


「あのね、高橋君がね……」向井さんが口を開く。「謝ってくれたの」


 やはりわたしが学校を休んだことで、何かしら責任を感じたのかもしれない――高橋くんも、向井さんも。

 高橋くんはナイーブだ。乱暴な態度を取るのは彼が無神経だからではない。触れられたくない部分を守るために、彼なりに線を引いていたのだ。高橋くんには松下くんがやっているように接してやらなければならなかったのだ。汀みたいなのは、きっと高橋くんは一番嫌うところだろう。

「それでね」向井さんは続けた。「本間さんにも、ごめんねって」


 高橋くんに謝ってもらいたいわけではなかった。むしろ汀の方こそ、高橋くんにとってしまった態度のことを悔やんでいた。高橋くんはそういう接し方しか出来なかったんだ。きっと彼はそうしなければ不安なのだろう。そして伊藤くんも松下くんも、高橋くんのことをよく知っているのだ。


 わたしだって同じだ、と汀は思った。人のことばっか見ていないとやりきれなくなってしまう。生まれてからずっと自分を積み上げてきた場所は、ある日すっぽりと大きな穴に飲み込まれてしまったのだもの。そして、やっぱりみんなわたしのことをよく知っている。


 わたしはあの日、屋根からはだしのまま庭に飛び降りた。すぐに隣の五十嵐いがらしさんが駆け寄り、抱きかかえてくれた。五十嵐さんはわたしが窓から屋根の上に出るところを見ていたらしい。そのまま安全な道路まで連れて行かれ、闇の中で燃える家を見ていると、自分が外にいてそれを眺めていることが不自然なことに思えた。自分の身に起こったことよりも、自分が穴に飲み込まれなかったことの方がずっと不自然なことだった。


 不意に汀は泣きたい衝動にかられた。一筋の涙が頬を伝い、汀はそこにあったバス停のソファにどすんと座り込んだ。そしてすすり泣きを始める。

「もしもし、本間さん? 大丈夫?」

 別に向井さんの保護者ぶっていたわけではない。

「悪いひと、来た?」


 目立たないようにしているが、本当は物凄い大きな苦しみを抱えているんじゃないだろうか。家は休まる場所になっているんだろうか。成績に関して親から過度の期待をかけられていないだろうか。自分に何かできるんじゃないだろうか――。クラスに溶け込めないでいる向井さんを見ているとそんなことが気になってしょうがなかった。自分のお兄ちゃんの時だって、もっと自分に出来る事があったんじゃないだろうか。


「本間さん……。どうしよ……」と向井さんが電話のむこうで狼狽うろたえていた。


 おせっかいばっか焼いてないで自分のこと見てみろよ。高橋君はそんなこと口にはしなかったがそう言われているような気分になったのだ。みんな汀のことを知っていたのだ。わたしが普通の振りをしていることを、みんな知っていたのだ。


「んーと……」

 汀はまだすすり泣きを続けている。不思議と電話を切る気にはならない。すると、電話の向こうでカチャカチャとキーボードを叩く音が聞こえる。それも随分と軽快な調子だ。

「本間さん。今ね、お兄ちゃんにメールしたから。大丈夫だよ。あのね、コンビニでバイトしてるの」

「向井さん、わたし……。わたしのことなんて……、もう誰もわたしのことなんて知らないんだと思ってた」

「あ、えっと……。わたしのお兄ちゃん、知ってるよ。本間さん会ったことあるんだよ」と向井さん。

「でも、みんなわたしのこと知ってたの。それがね、どっちも嫌なの。わたしのこと誰かが知ってるのも、誰も知らないのも、どっちもいや」

「本間さん、怖くないよ。大丈夫だよ」

「うん……。ありがとう」

「やさしいんだよ、おにいちゃん。怖くないよ」

「うん……おにいちゃんのことか。ありがとう」


 すぐにコンビニの方から原付バイクの音が聞こえてくる。ヘッドライトが鋭く闇を断ち切り、チープなエンジン音がどんどんと近づいてきた。そして原付は汀の座っているソファの前で停まった。顔を判別することはできないが、男性が声をかけてくる。

「やあ、汀ちゃん。送っていくよ。ほら、この前至くんのガレージで会ったでしょ」

 ヘルメットもかぶらないで慌てて出てきたのかと思えば、随分と落ち着いた口調だった。汀はなんだか恥ずかしくなって、泣くのを我慢しようとつとめた。

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