第四話 団らんナースチェンカ

「ただいま」

 戸が開く音と共に汀ちゃんの声が聞こえてきました。でも至くんはパソコンに向かったままで返事をしません。


 いたるくんはここ数日、ずっと集中してコンピューターに向かっています。こういうときプログラマは食事を摂ることも、トイレに行くことさえも忘れて没入してしまうものです。

 わたしはわたしで、近頃はずっと寝返りを打つ練習をしています。伸ばした足を振り回して勢いをつければそれなりに形になりました。でも、それでは腕の一本が体の下に入ってしまい、そこから身動きが取れなくなってしまいます。伸ばした足を梃子てこにするわけですが、空中に投げ出した足を保ったままでは腕を体の下から抜くことが出来ません。腕を抜くために胸部を持ち上げようとすると、ごろんと戻ってしまいます。一言でいってしまえば体が硬いんですね。

 わたしの外骨格は人間の肉のようにつぶれてはくれません。まさしくひっくり返ったカブトムシのようなものです。角をつけてもらえば解決できるかもしれませが、そうわけにもいきません。

 そこでわたしは、予め仰向けの状態で腕を背中の下に回しておくという方法をとることにしました。この方法はうまくいきました。もしかすると肩に過度の負担がかかっているのかもしれませんが、幸いなことにわたしには痛覚がないのです。壊れてしまったら至くんが治してくれるでしょう。

 こうしてわたしはうつ伏せを覚えることに成功しました。でも、まだまだハイハイへの道は険しい。四つんばいにはなれないし、うつ伏せでは地面を蹴ることもできません。いままでのように仰向けで地面を蹴る場合には、主に膝を使っているのですが、どうやらうつ伏せでは股関節を複雑に使う必要があるみたいなのです。でも、うつ伏せになればそれだけで水平方向の視野は随分と広くなりました。


 汀ちゃんはスーパーで買って来た惣菜をテーブルに並べていました。汀ちゃんの買い物は至くんの買い物とは随分と違います。ひじき、魚の煮物、酢の物、それに白菜の漬物。至くんは絶対に漬物など買わなかったし、お肉は絶対に外しませんでした。


「至さん、ご飯にします」

「うん……」

 至くんのガレージには型落ちのIHクッキングヒーターが入っていました。でも残念なことに、汀ちゃんは学校に通い始めたため、それに試験期間中ということもあって凝った料理に時間をかけるほど余裕はありません。それでも汀ちゃんは至くんの食生活に合わせるのを拒否し、学校から帰ってから自分で買い物に出かけるようにしたのです。そんなの大変だからって、料理はしないけど買い物くらい任せろ、と至くんは言うのですが、頑固にも汀ちゃんはまったく聞かないのです。


「至さん?」


 全然食卓に来ない至くんに、汀ちゃんの語調は強くなります。

「先に食べてて。いま手が離せないんだ」

「だめです。今すぐにきりをつけてください」 

「なんで?」

「何でって……。家族は一緒にご飯を食べるんです。知らないんですか?」

「それは合理性の話でしょ? いまね、以前書いた部分が……」

「合理性の話ではありません。そんなことだから至さんは自分をりっすることができないんです」


 汀ちゃんはなかなか厳しいことを言うので見てるこちらがはらはらします。相手が気分をそこねるかもしれないとは考えないのでしょうか。

 人間はあまり意識を払うことはありませんが、相手の気持ちを推し量るという能力は、実は相当に高度な能力なのです。

 たとえば餌を隠すという行動は生き物の世界ではよく見られる現象です。それでも、餌を隠しているところを他の個体に見られていて、その個体が自分にとって好ましくない行動をとるかもしれない、という仮定ができる動物は限られています。かしこいと言われている犬でさえ、自分の宝物の隠し場所を簡単に教えてしまうものです。何かを隠すときに誰かに見られていないかと警戒するのは、霊長類の一部とカラスだけだといわれています。


 おそらく汀ちゃんは、至くんにならここまで言っても大丈夫だというラインが無意識のうちに分かっているのでしょう。このラインをコンピューターで探り出そうとするとオーバーフローを起こしてしまいます。

「あのね、うまく動かない部分があるから、関数をまるっと書き直している途中なのね。こういう時って……」

「議論はしません。いま食べるか、でなければご飯抜きです」


 わたしには至くんの気持ちがよくわかります。こういうときは書けば書くけど頭の中のお城がどんどん膨らんでいって、書いても書いても追いつかなくなります。頭の中のお城を全部書いてしまわないことには気持ち悪くてやめられません。だから書けるときにはご飯をたべる間も惜しんで書いてしまいたくなるのです。ひとたび書けなくなると本当に何も書けなくなってしまうんですから。

 書けないときは、今度は何時間もパソコンの前に居ながら紛れ込んだスペースを削ったり、既に書いた部分の別の言い回しを考えたり、ひどい場合には投げ出しておもしろサイトを巡回しているだけで時間が過ぎていってしまいます。プログラミングとはそういうものなのです。


「あれ……、おかしいな。汀はお母さんだったっけな」

「そう思ってもらっても構いません。もちろん社会人ともなると、用事があって家族と食事を摂れないなんてこともあるでしょうが、今日はそんなことありませんよね?」

「お母さん、ぼくはもう一人でもご飯食べられるから……」

「いま食べないなら捨てます」

「捨てるって、もったいないよ。意味がないでしょ。それじゃまるでお母さんが駄々だだっ子だ」

「議論はしません」

「一緒にご飯食べてくれなきゃやだーって言うなら、先に言ってくれないと……」

「買い物から帰ったらご飯にすると言いました」


 プログラマというのは、自由にとても執着します。時に過度な自由を要求して事件になることもありますが、それでも必ずしも自分本位というわけではありません。それが証拠にハッカーは他国の民主化運動にも積極的です。

 逆説的に言うと、ハッカーたちは誰かが異端と呼ばれるような体制をどうしても受け入れることが出来ないのです。なぜならば彼らの多くが、かつて学校では異端とされる存在だったからです。奇抜さというのはクリエイターにとって必要不可欠な傾向なのです。

 誰かの自由を侵害するような人間を、人は泥棒とか人殺しと呼びます。泥棒は彼らにふさわしい扱いを受けるでしょう。奇抜な言動を取るという自由を行使する者が異端だとか、宇宙人と呼ばれ理不尽な扱いを受けるのです。

 最もありふれた価値観の集合が常識的な人間を作ると言うのならば、真に常識的な人は――、おそらくこの世に一人いるか居ないかくらいでしょう。これは、最もありふれた曲線の集合が美人を形作るとしても、美人はそれほど多くないというのと同じことです。普通の人なんて居ないのに、だからこそ人はみな普通であろうと努力し、異端との間に明確な線を欲しがるのです。常識という幻想が人の自由を不当に制限し、誰かが異端とされるような体制を作り出すのです。


 家族とはそういうものです。――どうしたらこんな不可解な理由で人を説得できるという考えに到るのでしょう。


「でも、その通りです」汀ちゃんの口調はちょっと柔らかくなりました。「一緒に食べましょうって言ってるだけです」

「わかったよ。わかった、いま行きます」

 汀ちゃんは席について、並べられた夕食を前に家族が揃うのを待っています。その様子は楽しそうに、あるいは勝ち誇ったように見えました。やがて至くんが手を洗って席に着きます。

「ちゃんといただきますってするんですよ」

「まだだよ。ナースチェンカも家族だから」

「まあ……、意趣返いしゅがえしですか?」

「ナースチェンカは家族じゃないの?」

「ナンシーもいらっしゃい」


 わたしはそのとき、うつ伏せの状態で二人の様子を眺めていました。汀ちゃんはあまり好きではありませんが、こうして呼ばれてみるとまんざらでもない気持ちになります。ナンシーというのも、きっかけは記憶違いだったとしても、あだ名みたいで親密な呼びかけに聞こえます。


 わたしは寝返りを打って仰向けになり、いつものように背中をずりながらテーブルの方まで向かっていきます。わたしがガムテープで仕切られた居間に到達すると、至くんはいただきますと言って食事を始めました。汀ちゃんは少し驚いた様子です。

「ナンシーはわたし達の話を理解することができるのですか?」

「まさか……。だけど音は聞こえているし、人や、動くもの、普段と違うことに興味を持つようにプログラムしてある。人がこっちに集まれば、やはり興味を持つかもしれない」


 至くんはそう言いますが、わたしには音がどの方向から聞こえてくるかを認識するに足るだけのハードは与えられていません。犬やうさぎは耳をそばだてることによってそれを知るといいます。人間の場合は他の動物にはない複雑な耳の形状がそれを助けると言われています。わたしの耳はそんなに複雑ではないし、なにより致命的なことにわたしの耳はモノラルです。


「なぜ立って歩くようにプログラムしないんですか? 服がぼろぼろで、きれいな髪の毛も痛んでしまいますよ?」

外反母趾がいはんぼしなんだよ」

「歩くのはやっぱり難しいんですか?」

「というよりも、そういうやり方じゃないんだ。そのうち歩くようになるのではないかと期待しながら待つものなんだよ」

「あっ、自分で歩くようになるの?」汀ちゃんは興味を持ったようで、声色が少し変わった。

「うん。最も効率的な移動方法を自分で見出してくれるはずなんだ。赤ちゃんがまずハイハイを覚えて、それから伝い歩きをするようにね。でも、ナースチェンカを普通の人間として捉えると、仰向けの移動よりもハイハイをすべきだろうし、そのハイハイをしてくれないっていうのはハードに問題があると仮定するべきなんだ。一番ありそうなことは体重に比べて腕の……」

「だったら、言葉も覚えるんじゃないですか? ナンシーって呼んだら来たじゃないですか」


 これはいつだったか至くんが説明しかけたことですが、市販のAIはコンピューターの中だけで言語を含めたさまざまな能力を学びます。大手の電機メーカーが作っているようなエンターテイメントロボットは新品の状態で歩き、そしてしゃべります。つまり成熟した個体を作ろうというプロジェクトなのです。それに対して、至くんが作ろうとしているものは赤ん坊です。赤ん坊には好奇心や音を聞く機能は必要ですが、二足歩行をプログラムしてやる必要はないというわけです。つまり至くんは、AIに学習に必要な感覚器官と最低限の能力を与えてやれば、AIが自ら学習し、成熟いくのではないかと考えています。いや、むしろ三次元空間で生活をして情動を育てたことのないAIに本当の意味で絵を描かせることなど不可能だとさえ考えているのです。


「低級なコミュニケーションをこなす可能性がないとは言い切れないけど、いままでおれはほとんど言葉を聞かせていないよ?」

「そういえば一人でしたもんね。たしかにそれはそれで不気味なものがあります」

「いやあ、どん引きされようとも必要ならばやるよ。あんよは上手でちゅねーって。でも、なんにせよ試作機なんだよ」

「それで……、このお人形を選んだ理由は趣味ですか?」

「一番の理由はもちろん条件にかなってたからだけど、かわいいと思ってるよ。初めてみる人は驚くけどね、慣れるとかわいいんだよ。かわいいでしょ? 動きを邪魔するからドレスは脱がせちゃったんだけど、ドレスを着せるともっとかわいいんだよ」

「ふふふ。かわいいですよ」

 かわいいと言われると、まんざら悪い気はしないものですね。

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