第三話 汀とアリのサナギ

「ホンマ……ナギサさん、でいいのかな?」

「テイです」

「本間汀さんですね。よろしくお願いします」

「こちらこそよろしくお願いします」

 さすが国語の先生だけあって訓読みをしてくれた。担任の先生は無理に読もうとはせずに、どう読むのかと聞いてきた。社会の先生はミギワと読んだ。理科の先生はチョウと読んだ。女の子にチョウさんはないだろう。クラスメイトに笑われたので汀は理科の先生が嫌いになった。どの授業でも先生は汀を指名し、そして名前の読みを間違えた。 


「本間さん、教科書は……、あるみたいだね。転校してきて早々申し訳ないんだけど、来週もうテストなんですねえ。今日の授業でテスト範囲は終わる予定なんでね、本間さんのために授業の後半にテスト範囲のおさらいをしますんで、授業を聞いてなかったってひとも、今日はしっかり集中していきましょうね」 


 教科書のいくつかは前の学校と同じだった。違っていても内容が極端に変わることはないだろう。学校に通えなかった期間も勉強はしていたので試験も何とかなるだろう、と汀は思った。


 国語の授業が終わってから、前の席の有野さんが話しかけてきた。

「本間さん、他の教科も試験範囲教えといてあげるよ」

 変な時期に転校してきた汀は一番後ろの席を割り当てられた。転校生の汀を気遣きづかってか、有野さんは授業が終わるたびに声をかけてくれた。

「ほんと? ありがとう」

「うん。今日持ってる教科書だして。――しるしつけちゃってもいいかな」

「あ、自分でやるよ。範囲だけ教えて」

 有野さんは小柄で、やわらかい癖毛のかわいらしい子だ。今日初めて会って、まだ少し話をしただけだが、汀にとってはこの学校で最も親しい存在になっていた。


 朝、先生と教室に入ってきたときには全てがよそよそしいものに見えた。クラスメートなんてずらりと並んだ人形みたいなもので、どの顔も区別がつかない。ともすれば人形達はすべて意地悪なものにさえ思えた。黒板の前から眺めたあの風景の中にこんなに優しそうな有野さんが本当にいたのかどうか、汀には思い出せなかった。


 そういえば一人だけ、汀がみんなの前で自己紹介を済ませて、あてがわれた一番後ろの席まで歩いていくとき、驚いたような顔で視線を送り続けていた女の子がいた。その子の顔だけはよく覚えている。窓際に座っているおかっぱ、童顔の女の子で、顔の輪郭はふっくらとしていてかわいらしいのだが、色白というよりは蒼白という形容がしっくりくるような不健康な面色めんしょくをしていた。

 その女の子は、どっかで会いましたよね、とでも言うような顔をしていたが汀の方にはまるで心当たりはなかった。表情と浮世離れした印象から、その女の子は汀が最初に顔を覚えたクラスメートとなった。休み時間になったら、どっかで会いましたよね、なんて本当に尋ねられるかとも思ったが全くそんなことはなく、あの顔の意味は分からずじまいだ。


 その不健康な容貌の子とは接点をもてなかったが、ホームルームが終わると何人か積極的な子が話しかけてくれた。大野さん、岡田さん、戸田さん。何でも聞いてね、なんて言葉もかけてもらった。この子達は大人っぽい印象があって、特に岡田さんは背が高くてスタイルがいい。やはり社交的なグループのようで、男の子たちとも自然に交流していた。


 前の席の有野さんは大野さんたちほど積極的ではないが、人当たりのよさそうな笑顔で話しかけてくれた。有野さんは水村さんと仲がよく、この二人に派手さはないが物柔らかな空気の中で休み時間をすごしていた。


 つい数時間前には無機質なものとしか映らなかったクラスメートだが、今ではもう何人かの顔にはちゃんと色がついている。


「社会は……、百二十二ページね。――ねえ、本間さん。わたしなぎさって言うんだよ。さっきさ、先生が本間さんの名前間違えたでしょ? ナギサさんって。だからびっくりしちゃった」

「そうなんだ。でも有野さんのは普通のナギサでしょ?」

「そうそう。さんずいにものの渚。本間さんのもナギサって読むんだね」

「そうなんだけど……、ナギサでもないんだよね」

「ね。荻野おぎの先生、深読みしちゃったね。――そう、明治維新のとこから」

「うん。もうナギサでもいいやって思う……、うん。ホンマ・ナギサっていいよ。なんか……、頑固な性格も直りそう」

「頑固なの?」

「さあ……。わかんないけど、よく言われる」

「えー、でもテイって素敵だと思うけどな。なんか、古風でありながら新鮮だよ――八十四ページ、電流のとこね」

「八十……。だってさ、ホンマテイって、バランス悪くない? ホン・マテイみたい」

「ふふふ。それ何人なにじんだよ。――じゃあ、苗字が四文字とかなら良かったかもね」

 すると汀は理科の教科書を見開いたまま少し考え込んだ。なるほど、名前というのは普通は名字ありきで生み出されるものなのだ。でも女性の場合、結局は――。

「どうしたの? なにか分からなかった?」

 有野さんが不安そうに声をかける。有野さんは人懐っこさと控えめなところとを併せ持っている。そんなやわらかさを彼女の癖毛が体現していた。

「ううん。えっと……。理科のさ、二分野はどこまで進んでるのかなと思って」

「ああ、そうだよね。でも今日は一の方しか持ってきてないからな……。ちょっと貸してみて」

 有野さんは汀の新品の教科書をめくり、記憶を辿りながらどこまでやったかを探した。すると蝶のさなぎの写真が出てきて、手を止めた。

「そこなの?」汀は教科書を覗き込んでたずねる。

「あのね本間さん。名前だけどね、ナギサにするとね、サナギっていって馬鹿にされるんだよ。だからオススメしないよ」

「ナギサ? ナギサ、サナギ……。アリノ、サナギ……蟻のサナギ? ってこと? あ、うまいね」

「えー、うまくないよ」

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