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コイレルと約束をした三日目のこと、まだ日の明るいうちにアリン・チタは祖母に呼び出された。人々からの貢物で豊かな暮らしをしている彼女はすっかり肥え太っており、かつての面影はもうどこにも見出せそうになかった。節くれだった手に黄金や翡翠の指輪をじゃらじゃらと付け、頭に降りかけた香油が首筋に垂れてきている。彼女は貝細工を弄びながらアリン・チタに告げた。
「供儀をしようと思うんだよ」
はじめ、少年には祖母が何を言っているか理解できなかった。
「この頃いやな病が流行っているじゃないか。体中に大きな出来物が生える。人死にが出たのが良くないね。
まるで軽いお使いでも頼むかのような口ぶりだった。アリン・チタは背筋にすっと寒いものが走るのを感じた。彼女はどこまで変わり果ててしまったのだろう。人々を病から守るためとはいえ、そんな簡単に人の生き死にを決めるようなひとではなかった。表層は変わっても、人の心根の底は変わらないと信じていたのは愚かだったのだろうか。思わず噛んだ唇が痛む。マゥカ・ハトゥンはそれに気付いた様子もなく、
「シンチ・クントゥルがぜひとも娘をお役に立ててほしいと言ってきてね。あれ、何だったかしら、確か……コイレルとか言ったかね、その娘は」
頭を殴られたような衝撃を覚えた。思い浮かんだのは、おしゃべりな彼女の優しい笑顔だった。あの子が、犠牲になるのか。食い込んだ爪に血の滲む拳のなかで、これは報いなのだと思った。心の中で祖母を非難しながら口にも行動にも見せなかった自分に対する報いだと。あの少女を、危険に曝したのは自分だ。
老女のもとを辞しながら、少年は成すべきことを考える。──どうすれば、あの子を守れる?
再会したコイレルは、本当に何も知らないようだった。彼女はアリン・チタの手を取って、
「抜け出しましょ? わたしすごいものを用意したのよ。本当はもうここで言っちゃいたいんだけど、お楽しみだもの。ぜったいに言えないわ。だって本当にすてきなものなんだから!」
と軽やかに駆け出す。彼女はまるで背中に羽根でも生えているかのように走った。アリン・チタが同じように駆けようとすると、どうしてもさっ、さっと足音がしてしまうので、豹革のサンダルを脱いで素足で駆ける。ああ、彼女に来たるであろう悍ましい運命のことさえ嘘だったように思えるくらいに楽しい。そう考えて、本当に噓だったらどれだけ良かったろうと気が重くなる。空に浮かんだ瞳がちりちりとした目線を二人に遣るのが見えて、自ずと表情が翳ってしまう。
「アリン・チタ、大丈夫よ。わたしの人生でいちばんすごかったものを見せてあげるから。そう、いちばんすてきなものよ」
この子は少年が今夜の行き先を不安に思っていると早合点しているのだ。凛々しい顔で、私を信じてほしいとでも言うかのように真っ直ぐに瞳を見つめて繰り返す。それを見て、決して彼女の厚意を無駄にしてはいけないと、アリン・チタはそう決意した。人生で一番楽しい笑顔を浮かべて、彼女の見せたいものを見に行こう。
それは星明かりに揺れる花畑だった。いちめんに白や薄紫の可憐な花が咲き乱れている。アリン・チタは思わず息を呑んだ。
「ここ、とってもすてきでしょう? まだすっごく小さい頃に見つけたの。あなたにしかここは教えていないわ。アリン・チタ、あなただけによ? だって、大切な友達だもの。ここなら声がとってもきれいに響くし、流れ星だって見えるんだから」
コイレルは自慢げに笑みかける。アリン・チタは目元に熱いものがこみ上げるのを感じた。とめどなく溢れてくるこれは何だ。目の前でコイレルがうろたえている。「そんな。気に入らなかった? ごめんなさい、わたし。そんな顔をさせるなんて──」
「違うんだ」
「え?」
「僕は、こんな素敵なものを貰って、どうやって返したらいいんだろう。分からない。分からないよ。僕は、僕は──」
「いいのよ。あなたが友達でいてくれるだけでじゅうぶん満足だわ」
アリン・チタは声の限り泣き叫んだ。変声期前の喉がからからに乾いても、泣いて、泣いて、泣き叫んだ。コイレルの肩に顔を埋めて。少女は何も言わなかった。ただそっと、一つ二つ上の少年の背中を優しくさする。
「コイレル」
「どうしたの?」
「一緒に逃げよう。どこまでも逃げて、逃げて、空が途切れるところまで抜け出そう。僕は君を守りたい。いきなりこんなことを言っても訳が分からないかもしれないけれど。それでも、」
「……いいわよ」
少女は、アリン・チタのただならぬ様子に何も問わずに頷いた。花畑のなかを二人手を取り合って進む。夜だというのに、影が地面に伸びていた。本当に、星の明るい夜だった。
道すがら少年は事情を話した。祖母がコイレルを生贄にしようとしていることを。彼女の父親が娘を差し出したことは言っていいのか分からなかったが、隠すのも違うような気がして、伝えた。少女はひとしきり泣いて、少年は少し前に少女がそうしてくれたように彼女の背中をさすって、二人はまた歩き出した。
だが、それもいつまでも続くわけではない。幼い二人の足ではそう遠くまで行けなかったのだ。
「アリン・チタ!」
山間の道に老女の声が響く。マゥカ・ハトゥンだった。何十人もの崇拝者を連れて、彼女自身は輿に担がれている。まるで女王のようだった。少年は少女を連れて逃げ出そうとして、足が震えて動けないのに気が付いた。コイレルは彼を心配そうな顔で見つめている。
アリン・チタは、彼女を助ける力をくれるなら何に命を捧げてもいいと天に願ったが、無駄だった。そこで彼は、自分の本質に気付いてしまった。気付いて、膝から崩れ落ちて「君だけでも、逃げて」と告げる。少女はそれを拒んだ。二人は、再び街へと連れ戻された。
供儀は予定の通りに行われた。
少女はあらかじめ酒を飲まされ、半ば眠ったように祭壇の上で仰向けに横たえられている。アリン・チタは黒曜石の刃を持って舞い、歌った。聴衆がみな恍惚に浸るほどに綺麗な歌声だった。ひとしきり儀式の手順が終わると、コイレルの柔らかで細い首筋に刃を立てる。少年の顔は青褪めていた。
役目を終えた少年は、項垂れたまま礼拝堂に佇み続けた。
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